ナチュラルライフサポートブログ

クリスマスに想うこと

今日はクリスマスです。

このところ、年末になって、気になるニュースが増えています。

 

障害者就労支援センターだかを運営する社会福祉法人の理事長が国会議員に便宜を図った末に訴えた事件や、

就労継続支援A型事業所が大量の障がい者を解雇したり、倒産したりしているなど、

障がい者関連のニュースが増えているような気がします。

そしてこれらが「就労支援」なのが気になりますね。

これらの組織の経営者らに聞いてみたいのです。

どうして「障がい者」なのか?

どうして「就労支援」を選んだのか?

単に儲かる仕事なら他にもたくさんあるでしょうに。

福祉に限っても高齢者や児童を対象にすることもできたでしょう。

なのにどうして?

この問いはこうしたグレーな組織の経営者にだけ向けるべきものじゃなくて、私たち支援者一人一人に改めて問いかけてみるべきものだと感じています。

 

相撲界も世間を賑わしていますね。

そこには単に暴力事件として納められない何物かが横たわっているように感じます。

協会内の権力争いやグローバル化の負の部分などが報じられたりしています。

綱の権威とか風格などということも言われていますね。

 

その横綱が奉納することでも有名な富岡八幡宮で、日本刀を用いたこの平成の世に起きたこととは信じられないような殺傷沙汰。

 

エルサレムを巡ってまたしても世界中に不安が渦巻いています。(日本は例外?)

 

これらのニュースは私たちに目を背けさせる本質的で普遍的なものを含んでいるような気がします。

本質的で普遍的なものというのは、有無を言わさぬ力を秘めているので、知ろうとすると大変な苦痛を伴うものです。

 

私がまだ小学生の頃だったでしょうか、北の湖というめっぽう強い横綱がいて、対抗する輪島という横綱は鋼のような体に鬼のような形相をしていて、それに比べ貴乃花という大関はイケメンでどこか物腰の柔らかさを感じさせるようで、その人たちの相撲を見るのが大好きでした。

三者三様に風格があって、格闘技を超えた何かを見せられているような気がしたものです。

同じ頃プロレスもまた大人気で、外国人レスラーらが血みどろになったり覆面をはがされそうになったりするのに大興奮の日々だったように覚えています。

 

先日の毎日新聞の夕刊に、法政大学の学長さんが「江戸から見ると」というコラムの中で、横綱の品格について語っておられました。

力士は日本神話や古代史にも登場して、あのアマテラスを岩戸から引き出したのが力士であるといい、その昔、貴人の葬送儀礼の一部として相撲を取った可能性があると。

生と死をつかさどるシャーマンであった可能性があるし、大地を踏むことで土地の精霊に豊穣を祈る役割もあったとというのです。

 

そのような存在感を身技のみで表現する横綱に対し、恐る恐るインタビューをするアナウンサーにほとんど言葉を発しないことが更に威厳を増すように見えて嬉しかった。(最近の横綱はヒーローインタビューはするは万歳をして見せるはですが)

 

やはり同じ日の毎日新聞の、「目立つクリスマス離れ」という記事に目が留まりました。

カップルや家族でチキンとケーキとイルミネーションというようなお決まりのクリスマスに縛られない人々が増えてきているとのこと。

確かに町や人々に盛り上がりがないように感じますね。

そんな中ローマ法王がクリスマスミサの法話で、エルサレムについて語っています。

内容もさることながら、その威風堂々としたお姿はやはり威厳があります。

 

神道では、人はもともと良いもので、あとから穢れがついて悪くなると考えるようです。

で、その穢れをお祓いで清めるわけです。

障害についてもそのように考えられていたようで、それは西洋においても同じでした。

そこへイエスという人が出てきて、障害は「神が与えたもの」そしてそこに神の栄光(人知を超えた何か)が現れるのだと言いました。

 

障がい者のことを「スペシャル」な人たちと言いますね。

何がスペシャルかと言うと、「神に特別に愛された人」「神から特別なものを与えられた人」という意味だそうです。

そしてそういう人たちに仕えるのは「私にしてくれたことと同じ」だと言うのです。

今日からちょうど2,018年前に生まれ、当時の人々に影響を与えて死に、今もエルサレムに墓があるとされている人が。

 

聖書のいうところの神は、「働くこと」を良しとしています。

与えられた賜物を活かして存分に働けと。

働きたくても働けなかった人には働いた人と同じように報酬(お金ではありません。神の憐れみといったものです)を与えると言っています。

そのかわり言い訳をして働かなかった人からはすべてを取り上げてしまいます。

そのように私たちはもともと働くように造られているというわけです。

「働く」ことは私たちの根源的、普遍的な欲求でもあるかもしれません。

 

ですから私たちが障がい者に心を配ったり、一緒に働こうとするのは、どこか理屈ではない、人としてのピュアな想いなのではないかと思うのです。

本来私たちは皆そういうものを持っている。

のだけれど、いつしか他の何かに取って代わられて見失ってしまうのです。

 

人の心には、神にしか埋められない穴が開いているのだとか。

 

クリスマスから年末年始、私たちが最もピュアな心持になる時節です。

この時を、皆と静かに過ごしたいと思っています。