今年も間もなく終わろうとしています。
令和になってもう丸三年ですか、早いものですね。
今年は我社にとって心機一転、足場固めの年ということで、親会社と協力してバックオフィスを強化したり、コンプライアンスや福利厚生など、様々な見直しをしています。
春に開設した新事業所もようやく軌道に乗りはしたものの、やはりコロナの影響は他事業所でも避けがたく、我慢の展開が続いています。
それでも休業したりすることもなく、毎日やるべき仕事があることに感謝ですね。
新年を心穏やかに迎えたいと思っていますが、このところ胸がざわつくようなニュースが毎日のように飛び込んできます。
それらの中には、障がい者らしき方が加害と被害の両方に含まれたりしています。
ある理不尽な事件では、私たちの事業とも関連するリワークプログラムの存在が注目されました。
こうした報道に接するとき、即座に善悪のレッテルを張るようなことには注意したいですね。
障がい者が起こした事件、障がい者が受けた事故、から思考停止になるのも避けたいです。
普段、障がい者と接する機会のない方は、障がい者を一括りにしてしまいがちです。
そして障がい者に好意的な方、そうでない方で、善と悪に二分してしまうような傾向があるような気がしています。
当然ですが、障がい者にもいい人も悪い人もいるわけです。
人格者もいれば、ろくでもない奴もいる。
ただ、そのろくでもなさは病気や障害ゆえに本人の意思ではなくそうした印象を与えてしまうこともあるので注意が必要ですが。
健常者にもいろんな人がいるのと同じで、当り前ですが障がい者にもいろんな人がいる。
障がい者は善、あるいは悪と決めつけようとするのは傲慢です。
明日、自分が障がい者になることだってあるのですから、他人事じゃないのです。
交通事故にあって身体障がい者になるという想像はそれほど難しくないかもしれませんが、何かしらの過度なストレスが原因で自分が精神障がい者になるというのはイメージしにくいかもしれませんね。
「オレオレ詐欺」と同様に、被害にあわれた方に同情はすれど理解できないという心情に似ているでしょうか。
ここでもやはり「自己責任」が頭をもたげてきます。
精神や心の病気などにかかるのは〇〇が足りないからだ、みたいな。
精神疾患を発症する方の中には、先天的な知的又は発達障害をお持ちの方が多いと聞きます。
私がこれまで多くの方と接してきた印象では、まじめな方が多いでしょうか。
まじめ過ぎて、融通が利かない。
あやふやなことが苦手。
冗談が通じない。
自信過剰(あるいは自己肯定感ゼロ)。
気が短い。
実はこれ、若い頃の私です。
よく言えば、正義感が強く、理想が高く、向上心が旺盛。
悪く言えば、身の程知らずで、自分勝手で、自己顕示欲の塊。
周りは私から腫れ物に触るかのように程よく距離を取り接してくれていたのだと今なら分かります。
その後、似非絶頂期を迎えた後の墜落でどん底を舐め、精神科病棟には紙一重でお世話にならずに済んだものの、一歩間違えば違う人生を歩んだであろうその道を少しずつ少しずつ軌道修正してきたのでした。
年老いた親と、長いこと疎遠だった弟が、娘が、近くにいてくれるようになったのは大きな嬉しい変化でした。
皆、口々に私のことを、「変わった」と言い、それは言外に「前はひどかった」と私にさらなる反省を促しているようでもあり、「よかった」と言ってもらえているようでもあります。
私が変わらなければ、これほど素晴らしい変化は訪れなかっただろうし、それを導いてくれた神様と妻には大変感謝しているのです。
自分に都合よく考える癖のあった私は、神を信じるようになった律義者の私に、神は必要なモノや人を「私のために与えてくださる」と考えて有頂天でした。
それが妻と出会い、神がどれほど深く彼女を慈しんでおられるかを知ったことで気付いたのです。
「彼女のために私が置かれたのだ」と。
それは私の中で劇的な変化をもたらしました。
私のために彼女が置かれたのではなく、彼女のために私が置かれたと確信したことで。
それに気が付いてからは、他の人へも同じように考えることができるようになりました。
私のために彼を与えてくださったのではなく、彼のために私を置かれたのだと。
そうすると、不思議なことにほとんど腹を立てることがなくなりました。
つまらないことにいちいち苛立つこともなくなりました。
相手の立場になって気持ちを考えることができるようになりました。
いい歳をして何を今更そんなことと笑われるかもしれませんが、実は似たような「癖」で人間関係に躓いている人は少なくないのだろうと思ったりしています。
そんな考え方の癖を修正する訓練などがリワークプログラムには含まれているそうです。
来年は、もっと心穏やかでいられる日が続きますように。