久しぶりのブログです。
前に書いた時から一年が経ってしまいました。
忙しかったこともありますが、なんだか書けなくなってしまったのです。
世の中には情報があふれています。
そんな中で少しでも誰かの役に立つことを書きたいと思うのですが、急速に私たちの価値観が多様化してきて、どこの誰に向けて発信したらいいのか迷ってしまうのです。
うっかりしたことを書くと誹謗中傷の雨嵐、
そういう危険から少し身を引きたくなったのかもしれません。
ちょうど一年前の、私たちの地元相模原市の障がい者施設やまゆり園での出来事が、まるでボディブローのようにじわじわと効いてきて、いつの間にか体力気力を奪われていく、そんな風に感じていました。
やはり業界に身を置く者にとっては、支援者による犯行というのが実にきつい。
やったことは常軌を逸していて、パーソナリティ障害云々と報じられていますが、未然に防げなかったものか、そこがなんともやりきれない思いです。
障がい者を支援する仕事を選ぶ人とはどんな人か?
まず、人のお世話をするのが好きな人、
そういう仕事は他にもたくさんあるのに、障がい者を選ぶのは、
弱い人、困っている人を見ると放っておけない性分の人、
そういう人はたくさんいるのに、中でも障がい者を選ぶのは、
障がい者に特別な思いのある人、
家族にそういう方がいるとか、あるいは自身が障がい者であるというケース。
それから案外多いのじゃないかと近頃思っているのは、自身で自覚しているかいないかは別にして、
障がい者に癒されたいと思っている人、
他の仕事では満たされない何かを自身の中に抱えている、そういう人が多いように感じるのです。
少し前、レインツリーの利用者が一人亡くなりました。
その日は午後がスタッフミーティングで、利用者は半日の作業でした。
他の利用者に誘われて焼き肉を食べに出掛けたそうです。
そのあと様子が急変して、夜には救急搬送、翌日には亡くなったと聞いています。
彼と初めて会ったのは、前の施設を立ち上げた10年ほど前です。
事業説明会に父親と一緒に現れた彼は、父親の脇にそっと張り付いている幼子のようでした。
父親が知り合いなどに頼んだ先で少し働いてみるものの、長続きせずの繰り返しで、パチンコや競馬など父親の行くところどこにでもくっついていったそうです。「しょうがねえ」と父は私に苦笑してみせるのでした。
発語はほとんどない、言われていることを理解しているのかどうかも分からない、コンビニのおにぎり一つを一時間かけても食べ終わらない、
そんな彼でしたが、何とも言えない愛嬌がありました。他の利用者も皆彼の面倒を見てあげようとするのです。たちまち彼は人気者になりました。そのうち大きな声も出るようになりましたし、食欲も増し、体つきもたくましくなり、タバコまで真似して吸うようになりました。
庭仕事では丁寧に草むしりや枝葉の掃除などができました。暑い日も寒い日も一生懸命やりました。
何年かたって、彼は作業所では古株、貴重な戦力ですし、なくてはならない存在になっていました。
そんなある日、新しい利用者が加わることになりました。
やはり発語なし。場面緘黙と言われるもので、家の中で家族の前などではしゃべれるのですが、他ではできない。その上動作がスローなので、不気味な印象すら与えてしまう。会話を試みるにはかなり我慢がいる。
そんな風なので、なかなか周りに馴染めない。本人も相当ストレスがたまってくる。親御さんからも苦情めいた手紙が届いたりするで、スタッフも困り果てていました。
そんな状況を、亡くなった彼が救ってくれたのです。
庭仕事を一緒にした折に、他の人にもするように何の屈託もなく彼に話しかけます。
返事がなくても話しかけます。
威張らず、媚びず、計算せず、
それが彼には嬉しかったらしいのです。
それから親御さんに彼のことをよく話すようになったそうです。
作業所でも時折二人で話しをする様子が見られるようになりました。
スタッフを困らせることも減り、他の人たちとも少しずつ馴染んでいきました。
もし亡くなった彼がいなかったら、どうなっていたか、
彼は去っていき、失敗体験をまた一つ背負い、何も解決しないまま、同じ失敗を繰り返すことになったかもしれません。
彼は間違いなく、他の人に癒しを与える存在でした。
潤滑油のような存在でした。
彼がいると場が和らぐのです。
天使とはこんな風かもしれないなと思いました。
障がい者なんかいなくなればいい
そういって凶荒を犯した彼はもしかすると癒されたかったのかもしれません。
しかしそれを天使たちに見破られたのです。
午前中は仕事をし、友達と腹いっぱい焼き肉を食べ、彼は幸せだったんじゃないかなと思います。
30年ちょっとの人生だったけれど、彼は確かに私たちにその生の痕跡を残していきました。
ちょっと忘れがたい痕跡を。