障がい者は社会を映す鏡だとよく言われます。
障がい者の生活を見れば、その社会が分かるとも。
相模原の施設で起きた類稀な殺傷事件は、世の中に大きな衝撃を与えています。
私たちも地元の関係機関であり、施設とは役割は違えど多少の交流もありましたので、非常にショックを受けています。
これからじわじわと色々な影響が出てくるのではと案じているところです。
今後、こうした施設のあり方が多方面から問われていくでしょうね。
また、被害者の実名は公表しないけれども、加害者の異常に過激な言動はどんどん垂れ流す、こうした警察やマスメディアの在り方も問われるでしょう。
事件の詳細が知れてくるにつれ、防げたかもしれないという悔しさと怒りが湧き上がってきます。
障がい者を抹殺するなどというのは、何も彼が国会議長に当てた手紙に綴ったように彼の大発明でもなんでもなく、私たち人類が繰り返し行ってきたことです。
しかし戦後70年の成熟国家と言われるこの国で起こったことに衝撃を覚えます。
安保改正、憲法改正が声高で語られる昨今の政治とは無関係でしょうか?
過剰な競争社会、そこから生まれた私たちの間の格差とは関係ないでしょうか?
過激な思想や映像を誰でも簡単に入手できるようになったことはどうでしょう?
過激な言葉や暴力が溢れています。
すぐに答えと結果が求められます。
皆、余裕がないのです。
障がい者が暮らしやすい社会とは、一言でいうと、寛容な社会です。
障がい者の生き方を尊重すると、どうしたって寛容にならざるを得ないのです。
だから障がい者がいると、場が和みます。
急いだり無理することにはほとんど意味がないからです。
努力はします。やれることはします。でもできないこと、変えられないことが多いのです。
価値観が急速に多様化していて、地域間や世代間で私たちの間に分断ができているような印象があります。
同じ日本人同士で、理解し合えないことが多くなっていますよね。
一人一人は皆違うという、人として基本的な大事なことを学んでいない大人が増えているような気がします。
そこで、会社こそが教育の場だ、社長は教育者たれ、聖職者たれ、という方がいます。
学校でも家庭でも学べないから、職場だというわけです。
確かに仕事をすることから学ぶことは多いです。
そして今こそ、特に私たち障がい者福祉に携わる人間は学ばなければならないでしょう。
福祉不要論を言う人もいます。
人間も動物なのだから弱肉強食の世界で生き残っていくしかないのだと。弱者にも自由競争のビジネスの世界でチャンスを与えればいい。積極的に救済する必要はないと。
福祉サービスというビジネスを通して、どうしてもビジネスには乗れない人たちを見ている私たちは、こういう声にどう対抗すればいいのか?
今回の事件を受けて、社長の私がまず皆に伝えたいのは、すべてをちゃんと見ろ、逃げるな、考えろ、ということです。
損得ではなく、まず己の感情に素直になれ。
死と向き合え、不条理と向き合え。
本気で怒ったり悲しんだりできない者に、いい仕事などできません。
間を置く、時間をかけるということも大事です。
怒っている最中に考えたことなど、ろくでもないことがほとんどだからです。
ちゃんと悲しめ、ちゃんと怒れ。
障害のある人たちもみな懸命に生きています。
懸命に生きているから、つらいことや悲しいことや楽しいことが山ほどあります。
そういう人生から私たちは何かを見出すのです。
損得では測れない何かを。
知り得ない何かを。
他人の人生から何かを学ぶのです。
アイドルスターが見事な役者、人格者に代わっていくのは、他人の人生を演じ、そこから何かを学んでいくからでしょう。
私たち福祉職の人間もそういう機会をたくさんいただいている。ありがたいと思うのです。
日曜日、私の所属するカトリック津久井教会では、事件のあった施設が近いこともあり、多くの方がミサに参加していました。
日頃から死と向き合っている教会では、被害者の方々に黙祷をささげる他はいつもと変わらない厳かな心に沁みる儀式が執り行われました。
答えが出ないときは、自分の信じる何かに身をゆだね、祈って、泣くのもいいものです。
そしてまた、笑って立ち向かっていくほかないのです。