ナチュラルライフサポートブログ

ソーシャルファームセミナー

先日、神奈川県主催のソーシャルファームセミナーへ参加してきました。
障がい者の就労支援関連のセミナーなり勉強会へはこのところすっかり足が遠のいていたのでしたが、今回のそれは、最近よく耳にする「ソーシャルファーム」についてのものでしたし、講演と事例発表をするゲストの方に前から大変関心を抱いていたのです。
お一人はアイエスエフネットグループ代表の渡邉幸義氏。
雇用の創造による社会貢献を志しておられ、障がい者の他にも様々な就労困難者を実際に雇用しておられます。
福祉業界の異端児とされ、次々と固定概念をぶっ壊して、奇跡を起こし続けていると言われているそうです。
もうお一人は社会福祉法人進和学園の統括施設長で、「良きA型」の全Aネットを立ち上げられた久保寺一男氏。
渡邉氏のマシンガントークに比べ久保寺氏はいかにも福祉の方といった感じの穏やかな語り口に誠実さがにじみ出たような方でした。
お二人がどんな思いで障がい者雇用に取り組んでおられるのか、なぜそんなに「雇用」にこだわるのか、そのあたりを知りたいと思ったのです。

欧米で広がりつつあるソーシャルファームについては、ホームページなどで知ってはいました。
少し前にはIPS(個別職業紹介とサポートによる援助付き雇用)というものもありましたが、ソーシャルファームの場合は、支援とか援助とかを超えて、できるだけ公費の補助なく就労困難者を雇用しビジネスを行う会社組織などを言うようです。
オランダ、ドイツなどが特に進んでいるのだとか。

よく日本の障がい者福祉は欧米に30年遅れていると言われます。
日本はようやくバリアフリーからノーマライゼーションへ。欧米ではノーマライゼーションからソーシャルインクルージョンと、さらにその先にと進んでいるのだそうです。
なぜそんなに差があるのでしょうか?
そもそも本当に「遅れている」のか?
日本は黒船以来ずっと欧米の背中を追いかけてきたように思いますし、様々な分野では追い越したかに見えるものもあるでしょう。
「障がい者を見れば社会が見える」とも言われますが、その欧米型の社会が今テロや難民問題、大企業の不正などによって大きく揺さぶられています。
日本も追いかけていけばいずれそういうことになるのでしょうか?
すでにその兆候は見え始めているとも言われています。
しかし今この国のリーダーたちは、それを悟ったのでしょうか、時代を逆行しているのではと思えるような政策を打ち出してきました。
三世帯同居を推奨するなどはその最たるものじゃないでしょうか。

社会のあらゆる課題が障がい者福祉には詰まっているように思います。
教育、労働、貧困、人権、差別、現場にいるとそうした問題に必ず行き当たるのです。
その根っこにあるものはなんなのだろうか?欧米の国々とは何が違うのか?
それは最近いろんな困難なケースに遭遇したり、若い福祉職員などと接していて感じるのですが、個人主義の成熟度の違いなんじゃないかと思っています。

そもそもアメリカや北欧の福祉先進国と言われる国と日本では、障がい者など弱者に対する国民一人一人の意識がまるで違うようです。
アメリカも北欧の国々も列記とした競争社会だし、格差社会でもあります。
しかしそうして生まれた弱者を救う道が、アメリカでは宗教団体や慈善団体だし、北欧では手厚い社会保障制度です。
その中間辺りにあるのが、オランダやドイツのソーシャルファームということになるのでしょうか。
日本にはその全部がない。
あるのは生活保護制度くらい。
その生活保護も、受給するにはいろいろな条件があり、人間としての尊厳を傷つけられて気力を失っていく人もいる。
人は様々な理由で生活困難に陥る場合があります。
しかし障害が理由でそうなった人が、他の理由の人たちと一緒に同じように扱われるのはどうなのでしょう?
障害も自業自得なのでしょうか?
私は、いわゆるニートやひきこもりやシングルマザーなどの人が受けるものと障がい者のものは分けるべきだと思っています。
それ以前に、障がい者が生活保護でなければ暮らせないこと自体が問題で、年金などで保護されていいと思っています。
そういうことを言うと、「障がい者に甘くするな」とか「ろくでもない障がい者もいる」とかいう声がすぐに聞こえてきそうですし、障がい者自身やその身内からも「誰の世話にもなりたくない」などと言ってその困窮を深めていく人もあったりします。
「他人の世話になる」のが嫌だと言って野宿して暮らす人たち。
社会不信、人間不信から心を固く閉じてしまっています。
そうした人の中には多くの障がい者が含まれていると言われています。
障害を負うというおそらく一生に一度の致命的な試練を背負った上に、生活保護という後ろめたさを覚えながら肩身の狭い思いをして暮らしていくか、それが嫌なら働けというのは、なんて厳しい社会なんだろうと思ってしまうのです。
生活困窮者に手を差し伸べることが神の教えを実践する機会と考える社会との違いなのでしょうか。
困っている人を助けるのが当たり前の社会と、その範囲が身内だけ、他人には自業自得と関わらないようにする社会の違い。
周りも幸せでなければ自分も幸せになれないと考えるか、自分さえよければいいと考えるか。
今が一番大事なのか、自分がいなくなった後の未来まで思いを馳せるのか。

個人主義とは、すべてのことが人間一人一人その個人から始まると考えることだと思います。
個人をさて置いて、家族や地域や国があるのじゃない。
どんな福祉政策も雇用対策も、個人を無視しては成り立たないと思います。
70年代に、脳性麻痺者の団体「青い芝の会」の横塚晃一氏が、「現在の日本の社会機構のもとで障がい者が賃金労働をするというのは罪悪だ」と言い、重度障がい者がお尻を拭いてもらう(拭かせてあげる)のも社会参加だと言って、少しずつ障がい者の権利が認められ差別も減ってきたかには思われますが、今また、企業に雇用される障がい者と雇用されない障がい者の差別が始まったような気がしてなりません。

ゲストのお二人にそんなことを聞いてみたかったのですが、県主催とあってはできるはずもなく、それに渡邊氏などは自信満々な様子で語っておられましたから、もしかしたら私の方が異端なのではないかと思ったのでした。

ソーシャルファームは一つの理想だと思います。
しかし実現は大変困難です。
ソーシャルファームの前にやるべきことがたくさんあるからです。
長時間労働、男女不平等、外国人雇用、大学受験のための学校教育などなど。
欧米とはすでにこれらのことで大きな差があります。
それにソーシャルファームを実際にやっておられるという方を見ると、皆さん良い教育を受け良い会社に勤め出世もし成功してからこういう世界に関心を持って始めたという方が多いのです。
つまり本当に社会の底辺で働き生きるということの苦しみや辛さというものを知らない方たち。
劣悪な環境と待遇で人に使われ捨てられるのを甘んじて受け入れるしかないという人の気持ちはわからないのじゃないか。
雇用至上主義を唱える方たちからはいつもそんな印象を受けてしまうのです。

アイエスエフネットの渡邉氏が、自信満々に語った後、ややトーンダウンして、「社福との連携も考えている」と言ったのが印象に残りました。
私たちの相模原市にも進出しようとしたができなかったのは、そんな事情があったのだろうと推測した次第でした。

欧米のように、精神病院、養護学校、授産施設などの「必要悪」は消え去り、ソーシャルファームをはじめ、様々な場所で障がい者が活躍できるようになるのか、それとも日本の独自路線、日本らしさを際立たせるのか。

少なくとも私たち事業者は、「必要悪」である自覚を持つ必要があるし、必要悪である自覚があれば、青い芝の会の横塚氏が望んだように、健常者と障がい者が酒を酌み交わすことができるのかもしれない、そういう生々しさが就労支援セミナーからは感じ取れないのです。

最後に全Aネットの久保寺氏が、「就職しても2,3年で戻ってきちゃう方が多いんです」と語る様子が、家出をしたやんちゃな息子が戻ってきたときに父親が浮かべるだろう笑顔のようで、印象に残りました。