連日の台風には本当に参りましたね。
幸い我社の方には目立った影響はなく、ほっと胸をなでおろしているところですが、被害にあわれた方々の一日も早い回復と、復旧作業にあたる方々のうえに神の祝福がありますように祈ります。
さて、ずいぶん前に観た映画をもう一度観たら、全然違った映画に見えた、という経験は皆さんお持ちですよね。
先日またそんなことがあったのですが、そのあまりの違いに驚いてしまいました。
20年ほど前に観たアメリカの映画です。
当時、大変評判になり、原作本まで購入して読んだのを覚えています。
ですが、正直私には何がそんなに面白いのか全然わからなかった。
どうしてこんな中年の男女のラブストーリーがこれほど我々日本人の特に女性たちに受けているのか理解できませんでした。
それがどうでしょう、その映画の主人公と同年代になった今の私にはとてもよく分かるし、けっこう面白い。
たぶんそれは当時の私では何回見ても理解できないのだろうし、何回見ても面白くなかったに違いないのです。
映画の方は確かに4Kだかで、画像の美しさは以前とは比べ物にならないのだろうけれど、写っているものは同じ俳優、同じ景色、同じストーリーだ。
やはりこれは私の方に変化が起きたということなのだろうし、その変化とは歳を取ったということにほかならず、歳をとったということは知見が増えたということを裏付けるものだ。
若い頃に見えなかったものが見える、それはなんと甘美でうれしいことか。
日本人が外国へ出て行って奮闘する時代はもう古い。これからは外国人が日本に来て、日本に学び活躍していく時代だから、それに対応できる人材が必要と、ある国際的に活躍する日本人のバレエダンサーがそのようにおっしゃっていました。
なるほど、外国の情報も簡単に手に入れられるようになってみると、西洋はもはや私たちにそれほど魅力的に映らなくなってきている感がありますね。
外国人が、私たち日本人が気が付かなかった、あるいは忘れていた日本の魅力を発信するテレビ番組が人気だとか。
先日、我社の新人研修と称して、まずは庭への興味関心を持ってもらおうということで資料を集めたりしているときに、あらためて気が付きました。
日本庭園っていいもんだなあ、と。
世界に誇る日本文化の代表と言ってもいいのじゃないかと。
しかしその日本庭園を身近に親しむことはほとんどありませんね。
ガーデニングがブームになっても、日本庭園はそれとは別物のように扱われているのが現状です。
かくいう私も、ごく最近までそのよさをあまり理解できないでいました。
それがやはり歳のせいなのでしょうか、しっくりきますね。
好きですよ、今では。
ではその日本庭園の特徴とは何でしょう。
ある参考書には、日本庭園は「不易流行」です、とありました。
先人たちの優れた仕事をその時代の感性で受け止め、新しい庭を創造し、次代へ引き継ぐ。現代を生きる庭師の誰もが日本の伝統文化である庭園史の途上にいるのです、と。
「伝統」というのに弱いんですね、近頃は特に。
そして「不易」の根底にあるのは「自然」の存在。
その自然からの贈り物である樹木や草花、石や水という素材を使って使って作る究極の人工美。
同じ庭でも西洋の整形庭園とは違い、いたずらに華美な演出はせず、自然に馴染ませることを大切にする。つまり実際の自然の秩序や摂理を踏まえながら作庭したり、管理したりすることが、美しい日本庭園を作る基本なのです、と。
出ました、「自然の秩序や摂理」、悪くないですよ。
また別の書では、日本庭園はいうまでもなく自然風景式庭園である。基本的には自然風景の表現に重点を置いた庭園と言って差し支えない。しかし同じ風景式庭園でも、写実的表現に終始するヨーロッパの庭園とは大いに異なる。すなわち日本庭園の場合は、写実のみならず写意的(形を主とせず、対象の内容・精神・作者の精神性を表現すること)な側面が随所に見られる庭園が多い、とあります。
なるほど、若い時分にはなかなか理解しずらいところかもしれませんね。
そしてそれを表すデザイン技法として、「不完全性の重視」と言って、日本では古来、美術工芸やそのほか空間芸術において、「左右対称」「整形」及び「繰り返し」を避ける意匠が基本となっている。
不完全性!
不完全であるがゆえに尊いという人生哲学、障がい者福祉にも通じるものですね。
それから「間」の活用である。
日本では生活空間から芸術文化に至る様々な分野で幅広く「間」が用いられている。造園においては、樹木の「枝ぶり」という言葉に代表されるように、剪定によって「間」を生み出し、これが新たな構成美を創出すると。
「間」ですよ、「間」。
人間関係やコミュニケーションにも大事なんですよね、これが。
空間構成技法としては、「見え隠れ」「遮り」「障り」「折れ曲がり」「生けどり」「借景」「隅み掛け」「結界」と呼ぶような技法があり、それらは人の心理に強く訴える空間づくりの技法であり、まず感心をそそり、強い印象を与え、行動を誘発、場合によってはさらなる感動を与えるのだそうである。
というわけでなかなかに奥が深いのです。
庭師にはきめ細かい、丁寧な仕事が求められます。
そのほんの一手間を惜しむようではいけません。
そこにその庭師の愛が示されるんですね。
障害をお持ちの方などには、この季節の変わり目に体調を崩される方がとても多いです。
ナーバスになってしまい、極端な言動が目立ったりします。
そういう時には面談をし、お話を聞き、できるだけ当人の意思を尊重します。
私は、調子が悪い時に何かを決めてはいけません。調子が悪い時に決めたことは大抵ろくでもない結果になります。だから調子がよくなるまで待って考えましょう、とアドバイスします。
これが聞き入れられたことはほとんどありませんね。
調子が悪いのを変えたくてもがいている人によくなるまで待てと言っても響きませんよね。
特に若い人は待つのが苦手です。
ただじっと黙って待っているわけではありません。
今の自分に与えられていることを精一杯やり、静かに時が来るのを待つのです。
全てのことには時があります。
これは私が様々な経験から得た確信です。
「支援計画」と言います。
障害者総合支援法には、利用者の支援計画を作成し、それに基づいたサービス提供をしなければならないとあります。
それが「制度」ですから、従わなければなりません。
しかしそこには我々日本人のきめ細かな感性があまり感じられません。
「シエン」という言葉の響きのせいでしょうか?
その支援を「計画」するとは、いったいどこの誰へ向けて発しているのでしょうか?
支援されたい人などいるでしょうか?
自分の人生を他人に計画してもらいたい人などいるでしょうか?
もしそうしてもらいたい人がいたら、その人は自らの尊厳を傷つけられてしまっている可能性があります。
私たちはそうしたことに鈍感ではいけないと思います。
最近は若い人たちが目立ちますね。
「おとぎ話ばかり」と言って、世界中の要人たちを黙らせた少女。
香港の若者しかり。
日本でもNGOなどに若い人たちが大勢集まります。
若い人たちから斬新なアイデアが次々と発表されていますね。
それに比べ、いい歳をした人たちの困った振る舞いも目立ちます。
若い人たちにものを教えながら、そんなあれこれを考えるこの頃です。
写真は、東京・四谷のカトリック聖イグナチオ教会からの帰り道、駅を挟んだ土手の上の黒松の古木を見上げているところです。