久しぶりに旅行に行ってきました。
社長が休まないと休みにくいという社員の声にも励まされて、また飼い犬が亡くなって心配が減ったこともあり、思い切って出かけてきました。
行先に選んだのは長崎と五島。
潜伏キリシタン関連遺産として世界文化遺産に登録されたこともあり、またかねてから訪れてみたい場所でもありましたので。
旅行会社のツアーではどれも物足りず、すべて自分たちで手配することになり大変でしたが、結果的にはとても心に残るすばらしい旅になりました。
シーズンオフでもあり、新型ウィルスの影響もあってか、長崎にしろ五島にしろ、あまり活気がないようでした。また世界文化遺産登録を町をあげて歓迎しているといった空気もあまり感じられません。
一つには広範囲にわたってそうした関連施設などが散らばっているので、経済効果があまり見込めないからかもしれませんし、それからそれらの遺産の一つ一つは、多くの方々にとって、あまり大ぴらにしたいものではなかったという複雑な事情もあるのかもしれません。
私が隠れキリシタンに興味を持ったのは、遠藤周作氏の「沈黙」という小説を読んだことがきっかけでした。
数年前にはマーティン・スコセッシ監督の同名の映画も公開されましたね。
冒頭の、海辺での火だるまの処刑シーンから、貧しくても信仰に生きようとするキリシタンの人々と彼らを守ろうとする宣教師らへの陰惨な仕打ちの連続で、心していたにもかかわらず胸の苦しくなるような映画でした。
遠藤周作氏は、西洋人から与えられたダブダブのスーツのようなものではなく、日本人に合ったキリスト教信仰というものを考え続けた人だと思いますが、その評価は信者の間でも随分と開きがありますね。
私はその小説にすっかりはまってしまい、その後氏の歴史小説、キリシタン大名らの物語を中心に読み漁ったものです。
そうしたなかから当時の隠れキリシタンの人たちへのシンパシーのようなものを感じ、それを自分なりに考えてきましたから、今回の旅はそれを確かめるためでもありました。
長崎港から五島の福江港まで高速ジェットで一時間半ほど。
今から四百年前の伝馬船ではいったいどのくらいの時間がかかったのでしょう。
東京羽田を九時過ぎに出て、五島に着いたのは夕方の四時頃でした。
ホテルにチェックインする前に、タクシーで島の先端にある堂崎教会堂へ行ってもらいました。
その道すがら、人の好い運転手さんが色々と説明してくれます。
長崎の外海地方からこの地へやってきた人らが最初に辿り着いたとされる海岸や、人目のつかない場所にあるキリシタン墓地などへも案内してくれました。
そしてこの辺の家は仏教、この辺はキリシタンなどと、まるで何かの仕分け作業でもするような調子で教えてくれるのでした。
キリシタンの人らが来た時には、もういい場所は仏教徒らが住んでましたから、彼らは場所を探して奥へ奥へと辺鄙で険しいところに向かっていったとです。
そんな運転手さんの説明を聞きながら、最初の訪問地、堂崎教会堂へ着くと、すでに教会内部の資料館は閉まっていましたが、その先に広がる穏やかな海と、テレビなどでもちょっとした有名人となった昔ながらのアイスを売るおばあちゃんとおしゃべりをして、知らない土地に来た満足感を得、その後、福江の街中、武家屋敷跡などを案内してもらってから、翌々日の福江空港までの送迎の約束して、ホテルで降ろしてもらいました。
翌日は朝早くにフェリーで上五島の奈良尾港へ渡り、レンタカーを借りて「巡礼」が始まりました。
世界文化遺産に登録されている頭ケ島天主堂へは、近くの旧い空港から専用バスが出るパークアンドライド方式がとられています。
乗客は私たちの他には若い家族連れが一組と女性同士のカップルが一組あるだけでした。
ここの教会もすぐ目の前は海。そこに大小の島々が散らばっています。
石造りの立派な建物は、五島の花、椿をモチーフにした柱の飾りやステンドグラスが可愛らしくもあり、建築に携わった人たちのセンスと思い入れが伝わってくるようでした。
ガイドの初老の男性は、私たちが信者と分かると笑顔を見せ、案内する人の少ないのをいいことに、日頃の観光客相手のフラストレーションを吐き出すように、多くを語ってくれました。
自身の娘さんが私たちの地元の神奈川の大和教会で結婚式を挙げたとか、ご縁を感じる出会いでした。
その日と翌日の夕方まで、五十三カ所ある五島の教会のうち十五カ所ほどをやっと巡り、その多くが海を見下ろす高台に、控えめながらもその地に馴染んで建っているのを見ると、これを建てた方々と、守っていかれる方々の、ご苦労を思って感動しました。
ずっと雨が降っていて、海は灰色にかすんでいましたが、不思議と次の目的地に着くころにはやんでいて、陽が差したりして、よく来たな、と神様が言ってくれているように思えたものです。
ある教会では、ちょうど夕方からのミサが行われる前で、おばあちゃま方がぽつんぽつんと現れます。ミサまではまだ一時間以上もあるというのに、「祈りばしよっと」と私たちに笑顔を向け、椅子に腰かけたと思うと何やら声に出して祈り始められました。
役所の職員らしい若い男性が一人、入口のかまちに座って、一軒一軒回るよりここの方が楽だからと、お一人お一人に「今畑で何ば作りよっとか?」などと尋ねています。
教会が集落の公民館のような役割を担っているようでした。
日曜には、泊まった民宿のそばの教会のミサに与りました。
二十名ほどの信者の中には侍者をする子供の姿もあり、ミサの後では若い司祭の腰にまとわりついてはしゃいでいます。来週には福江島で長崎と五島の司祭らによるマラソン大会があるんですなどというお話を聞き、確実に過疎が進んでいる地域にあってもなおここはまだ大丈夫なんだと少しほっとしました。
三日目は夕方から飛行機で長崎へ行き、本降りの雨の中、中国の春節を祝うランタン祭りが中華街でやっているのを見て、本格中華に舌鼓を打ちました。
最終日も朝からレンタカーで、世界文化遺産登録の「外海の出津集落と大野集落」を見て歩き、遠藤周作文学館では、沈黙のモデルとなったその集落と海とを見下ろし、折からの雷鳴と激しい雨が、この海岸での処刑と、この地から五島へ船を漕いで渡って行った貧しいキリシタンの人々への想像をかき立てるのでした。
その後、長崎の平和公園と、浦上天主堂の被爆マリア像を見、売店のシスターとおしゃべりをし、最後に観光地と化したグラバー園そばの大浦天主堂と、そのすぐそばに信者らの使う大浦教会を見学して、巡礼は終わりました。
私たちは、豊臣、徳川の時代に、キリスト教が禁止になり、多くの信者と宣教師が殺されたことは、学校の歴史の授業でも教えますから、なんとなく知ってはいます。
しかし迫害の末に根絶されたと思われた四十万人いたとされるキリシタンが秘かにその信仰を保ち、二百年後に見つかった数名の信徒らをきっかけに再び始まった迫害と、その後諸外国からの批判に屈し、明治政府が禁教を解いた後にも続いたキリシタンの人々への差別のことはあまり知られていませんね。
禁教時代、多くのキリシタンは捕らえられ筆舌に尽くしがたい拷問を受けたうえで殺されていきました。また他の者は、時折吹き荒れる取り調べや仕打ちに耐え、あるいは表向きは信仰を捨て、厳しい年貢の取り立てと貧しさに耐え忍んで暮らしていました。
その当時の日本は、イスラム国を名乗る連中の私たちを震え上がらせた異教徒の処刑の数々や、ナチスドイツのユダヤ人虐殺、ルワンダでの大量虐殺などに匹敵するほどの恐怖を国際社会に見せつけたに違いありません。
それから禁教が解かれ、信教の自由を許されるようになってもなお、人々のキリシタン差別はなくならなかったのです。
キリシタン弾圧の歴史は、多くの人にとっては過去の苦々しい記憶なのかもしれません。
それらを示す資料というのはあまり多くないそうですね。ほとんどが外国の宣教師らからのものだそうです。
時の為政者もまた、不都合な記録は抹消しようとしたのでしょう。
津久井やまゆり園で起きた十九人の障がい者の殺害事件と、今その裁判が行われる中、実名をあげることができない被害者のご家族の姿が、私にはこの潜伏キリシタンの方々の姿に重なって見えます。
禁教が解かれた後、キリシタンは、自分たちが渡ってきた土地、つらく苦しい思い出の土地に教会堂を建て始めます。
指先に火を灯すように皆で資金を貯め、自給自足の野良仕事の合間に、木を切り石を積み、造り上げていきました。
いたるところに生える藪椿の小ぶりな赤い花を、この土地に根を下ろした自分たちと重ね合わせ、柱やステンドグラスなどあちこちに配していきました。
争うな、許しなさい、そして喜びなさいという神の教えを貫くようにして、パライソ(天国)を夢見ながら懸命に生きたのだと思います。
頭ケ島天主堂のそばのキリシタン墓地では、春から初夏にかけてマツバギクのピンクの花が地面を埋めるそうです。
白い砂浜が賑わうそんな時期に、また訪れようと思いました。