社長ブログ

エール

テレワークをする人が増えているそうですね。

満員電車に乗らなくていいと言う一方で、子育てとの両立は無理とか、新たなハラスメントを生んだりとか、課題はいろいろありそうですが、ある程度定着していくことは間違いなさそうですね。

私も、前ほど事業所に行かねばならないことが減り、もっぱら自宅でのテレワークに励んでいます。

もとは息子の部屋だったのを、私の仕事部屋にしています。

南向きの二階の角部屋なので、とても明るく、窓からは川面とその向こうの山の緑を望むこともでき、仕事がはかどります。

 

「新しい生活様式」と言われ、ますます家にいることが増える中で、楽しみを一つ見つけました。「朝ドラ」です。

いくらテレワークが進んだからと言って、朝ドラを見る人がどれほど増えたか知りませんが、悪くないですね。

大体毎朝五時半頃に起床して、散歩、ストレッチ、朝食、そして7時半からBSで朝ドラを見、歯を磨き髭を剃りながら余韻に浸りつつ仕事モードに切り替えていく、朝の儀式のようなものですが、すっかり定着してしまいました。

その朝ドラ、昭和の作曲家、古関裕而氏の生涯をややコミカルに描いていて、笑いあり涙あり、楽しませていただいています。

タイトルは「エール」。

またじわじわ感染者が増えてきていることや、大雨の被害など、心配と不安の毎日に、背中を押してもらうような気持になる方も多いのじゃないでしょうか。

その「エール」、このコロナの影響もあってのことか、少し前から本筋を中断して、特別編と、それが終わってからは初回からの再放送と、何やら制作現場の混迷が聞こえてきそうですが、私にとっては見ていなかった初めの方が見れるとあって、それはそれで嬉しくもあります。

が、家の中にいる時間が多いことで、ついつい思考も内向きになってしまうのでしょうか、先日の内容について、考え込んでしまいました。

古関勇治氏の妻、音さんの幼少期の話です。

馬具を製造販売する会社を経営する父親が、電車に跳ねられて死亡するという事件が起こります。

妻と三人の娘を残して死んでしまった父親は、教会での礼拝のシーンや、十字架の付いたロザリオなどから、クリスチャンなのだなと分かるわけですが、「特別編」では、その彼が、閻魔大王のもとから額に三角布と白装束を付け、嬉々として下界の家族のもとへやって来ます。

そして妻や子供たちと束の間の再会を楽しむという、それはそれで涙を誘う感動的な内容ではあったのですが。

朝ドラに何を期待しているんだとお叱りを受けそうですが、これは随分と配慮を欠いた表現ではないでしょうか。

朝ドラ俄かファンの一人として苦言を言わせていただきたいのです。

クリスチャンが死後に白い三角巾を頭に付け、その家族のもとに帰って来るという表現は、生前の彼を敬虔な信仰者として描いていればこそ、信仰を持つ者にとっては大変ショッキングで、顔面を濡れタオルか何かでひっぱたかれて笑われたような、そんな気持ちがするものです。

死があるからこそ、宗教が存在すると言ってもいいと思うのですが、それをドラマにしろ、絵画にしろ音楽にしろ、表現者であるならば慎重に扱わなければなりません。それこそ腕の見せ所です。醍醐味でしょうし、作品の出来を大きく左右します。

制作スタッフの中には当然キリスト教の考証をする方もいらっしゃるはずですし、経験豊かな優秀な人たちが集まっているはずなのに、どうしてこういう表現が成立するのか、困惑します。

普段からニュースと映画以外はテレビをほとんど見ない私ですが、大河ドラマとNHKスペシャルはとても勉強になることが多く、好きでよく見ます。

そうして信頼しているからこそ、余計にショックなのですね。

 

信仰は、私という人間を構成する重要なファクターの一つですから、それをできるだけ包み隠さずに表現できたらと、そんな思いでこのブログを書いています。

私の考えること、行いには、少なからずキリスト教のスピリットと言うべきものが影響を及ぼしているからです。

父や母、教師や友人たちから受けたものと同等に、それ以上かもしれませんが、影響を受けてきました。

六十年近い人生経験の上で、最も強烈なインパクトを刻んでいます。

だからどうしても、避けては通れないのです。

 

近頃の日本の状況は、かなり深刻なものに思えます。

嘘、不正、不誠実、怒り、差別、無慈悲、そんなものがはびこっているように思えます。

自分がこの歳になったから見えてきたのか、ずいぶん前からそうだったのか分かりません。

が、その原因の一つに、宗教がその本来の役割を果たせていないことが大きいような気がするのです。

儒教にしろ仏教にしろ、戦国時代には一大勢力として天下人を恐れさせたキリスト教にしろ、その教えには人が人として生きるために必要なことが詰め込まれています。

それを遠ざけ、忌み嫌い、無視しようとしてきたツケが回ってきたのじゃないか、そんな風にも思えます。

 

今、感染者の多くは二十代、三十代の若者だと言われていますね。

若いから仕方ないのか、だから若いと言われるのか、楽しいこと、危ないことがしたくて仕方ない。

私にも覚えがあります。

自分と、自分に関わりのあるごく身近な好きなものにしか興味がない。

正論を言われると腹が立つ。

自分より力の弱そうなものに吠え立てるが、強そうなものは見ないふりをする。

こういう若者を教育する仕組みと風土が昔の日本にはあったに違いないのですが、今はそれがない。

怖いおじさんもおばさんもいなくなり、人生を教えてくれる先生も師匠もいなくなった。

文学も芸術も分かりやすいのが好まれ、ゆっくりと文字を追うよりも飛び込んで来る映像を眺めていることが多くなった。

それで何でも知ったような気になり、人を傷付けることに躊躇がない。

それでもいつしか人は歳を取り、経験を重ね、人生五十年ともなれば悟りの境地にも似た落ち着きを醸し出すようになるのですが、そうならない人が目立ちます。

長生きするようになった現在では、五十でも遅くはありません。

このコロナ禍で、自らの非力さを思い知った方も多いことでしょう。

今が回心(心を神に向けること。神が嫌なら「仏」でも「天」でもよし。人知を超えた大いなるものの前で謙虚になること)するチャンス、とそう思います。

聖書にはこんなことが書かれています。

「人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである。あなた方は、自分で裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきりと見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」

人にどうこう言う前に、お前はどうなんだ、と突き付けてきます。愚か者め、と。

自分勝手で自信過剰な青二才の私は、この言葉で頭をガツンとやられ、真剣に自分と向き合うことにしました。四十二の時です。

それから確かに私は変わり、周囲が変わり、人生が変わりました。

 

三角巾を付けた父親は、再会した娘に向かってこう言います。

「ごめん、からだが勝手に動いた」と。

小さな子供を助けようと、迫って来る電車の前に飛び込んだ彼は、その瞬間、まっすぐで自由な一人の若者になりました。

そしてその生き様は娘たちに大きな影響を与えていくのですね。