社長ブログ

創業十周年

秋深き 隣は何を する人ぞ

 

毎年夏が終わると、急に時計の針の進む速度が増すように感じます。

今年も残り少ないと焦る気持ちと、人恋しさが募る時でもありますよね。

 

今年は弊社創業十周年ということで、何かそれなりのお祝いをしようと時期を伺っていたのですが、なかなか落ち着く感じもないし、もうそろそろ半期が終わってしまう前にやろうかということで、先日ようやく行うことができました。

本当はどこか気の利いた場所を借りて、もう少し盛大にやりたい気持ちもあったのですが、やはり今は慎重に、身内だけの、いつもの場所でのささやかなお祝いになりました。

それでも、若く元気なスタッフらが企画をしてくれて、とても楽しく、また有意義なものになりました。

 

これを機に、経営理念の見直しをしました。

思い切って基本理念を、「キリスト教信仰に基づく企業経営」としました。

常に先人の言葉と行いから学び、愛と奉仕の精神を持って神と人とに仕え、地域社会の創造的発展に貢献する、というものです。

 

企業経営者には、信心深い方が多いですよね。

事務所に神棚を設けてあったりするのをよく見かけます。

でもその経営者の信仰というものを企業理念にまで取り入れているところはあまりないですね。

神道や仏教であれば、言わずもがなというところなのでしょうか。

キリスト教の場合はそうはいきません。

この国では圧倒的に少数派ですから。

キリスト教精神とする方が一般受けしやすいのじゃないかとも思ったのですが、それではなんだか見栄えの良いところだけを調子よく拝借するような感じがして、潔くないと思ったのです。

信仰とは、信じて仰ぐと書きます。

その信じて仰ぐものは社長ではないのです。

カリスマ社長が教祖様のようになってしまっている会社がたくさんありますね。

成功している社長のほとんどがカリスマ性を持っていらっしゃるので、必然そのようになってしまうのは理解できます。

しかし私はこの十年を振り返った時に、創業時の志の一つ、偉そうな社長にはなるまいと誓ったのを思い出します。

それは自分が受けた傷によるものですが、決して俺はああなるまいと思ったものです。

若いころから、師を求めていた私ですが、そういう方にお会いすることはとうとう叶わず、その代わり半面教師とするような方にはずいぶんお目にかかりました。

しかし俺はそうなるまいと思えたのも、信仰を持てたからこそですし、それがなければ、とてもここまでは来れなかったと思っています。

精神を学ぶだけではなく、先人の言葉と行動を信じて真似てきたからできたことがほとんどです。

先人の言葉とは聖書のことですが、聖書に限定しなかったのはカトリックの教えにある伝承をも重視するからです。

今も、戦争や災害を語り継ごうとする方々がいらっしゃいますね。

そのような伝承、言い伝えには、事実以上に真実が語られている場合があると思うからです。

いつか私もこの会社を去る時がきますが、この理念は残ります。

後継者にはぜひこれを守ってもらいたいと思います。

近頃では、会社を買いたい、買ってくれという話が時々やってきます。

このご時世に、後継者がいないので買わないかという社長、これ以上借金を増やす前に売れるものなら売ってしまいたいと考える経営者が増えていると聞きます。

また、内部留保を続け、資金は充分にあるのだが、本業が以前のようには立ちいかなくなったので、別事業を手掛けたい、そう考える企業も増えているとか。

経営戦略としてのM&Aは、頭に入れておくべきことだと思いますが、決断は簡単ではないでしょう。

やはりその時に必要なのが経営理念です。

喰うか喰われるかという時には、大きな武器になり得ると思うのです。

ちょっと簡単には手を出しにくい、そんな印象を持っていただくだけでもよいかもしれませんし、反対にそれが信頼に値しうるものであるなら、ぜひということになるでしょう。

いずれにせよ、小さな会社が生き残るには、他にはないものがないといけません。

ちょっと真似ができないこと、それを突き詰めていくことでしょうか。

 

それからもう一つ、このご時世を覆い始めた同調圧力に、少しでも抵抗しておかなければという思いがふつふつと湧いてきたことも理由の一つです。

それがもともとの民族性なのか、教育のせいなのか、私には分かりませんが、どうも私たち日本人は自分と違うものとうまく付き合っていくということが苦手ですね。

平和主義といえば聞こえはよいですが、事なかれ主義を全うしようとするなかで、違うものに出会うと、それを排除しようと陰湿ないじめが始まります。

かつてはいじめは目立たないようにやったものですが、最近は大手を振っている感がありますね。

冒頭の芭蕉の句を、隣は何をする奴だと監視し、中傷する様子が頭をよぎってしまうほど、今の私たち日本人は、本来の姿を見失っているように思えます。

そうしたことに声を上げ始めた若者が増えてきましたね。

テニスの大坂選手には、刺激をもらいました。

それはおかしいだろということにおかしいとちゃんと言える人たちが少しずつでも表れてきたことはとても良いことだと思います。

それから、自分はこうなのだと逃げも隠れもしないで主張できるということも。

この国では、自分の支持する政治や宗教について表明するなどというのは、大人の振る舞いとしてはやや下品なことであるらしく、よく分からないことへ余計な口出しをするのは慎むべきことであるから、傍観者を決め込みます。

大坂選手も言っておられましたが、もうシャイな自分は終わりにして、傍観者でいることに我慢がならなくなった人たちがそろそろ頭角を現してきたということなのでしょうか。

そんなことに大いに刺激を受けた私も、この際堂々と意思表示をしていこうと思い立ったのでした。

 

キリスト者である日本人は、かなりの少数派です。

キリスト者であるからといって、差別や迫害を受けるといったことはありませんが、困惑した様子を相手の方から受けることはよくあります。

おそらくそれは未知への恐怖といったものなのでしょうけれど、肌の色が違う外国人に向けられる感情も似たようなものでしょうか。

キリスト教が西洋の侵略者による邪教だなどという人はさすがに今では少ないと思いますが、一度関係が悪化すると、そんな感情が噴き出すことだってあるかもしれません。

戦国時代の天下人がそうでしたし、先の戦争の時は大衆がそうでした。

仏教か神道あたりに落ち着いていればこんな肩身の狭いような思いはしないですんだでしょうに、なぜか私はキリスト教に魅かれてしまった。

サラリーマン家庭に育ち、家は一応浄土真宗なのですが、何か家から継ぐようなものがあるわけでもなし、宗教とのかかわりといえば、近しい人が亡くなった時と、正月の初もうでくらいのもので、そうした身軽さが幸いしたということでしょうか。

何かが自分には決定的に欠けていると思い、純文学小説と、歴史や風俗、それに宗教の類の書物をむさぼるように読んだのは四十を少し過ぎた頃でした。

再婚をして新しい家族を持ったばかりの頃です。

若さも衰え始め、自分自身と現実を嫌でも直視しなければならなくなったころだったでしょうか。

キリスト教のいいところは、敷居が低いところです。とくにプロテスタントの教会は。

教会には始終だれかしらがいて、いつでもどなたでもどうぞと迎えてくださる。

そんなものだから、ひょいと出かけてみたのです。日曜日の礼拝に。

そしたら雷に打たれたみたいになってしまいましたね。

「これだ!」と思いました。

信徒の皆さんが歌う讃美歌が、私の心臓を鷲づかみにしてしまったようでした。

そうしてすぐに洗礼を受けた私ですが、数年後にはカトリックに宗旨替えし、そして今もいろんなことにつまずきながらも、自分なりに極めてみたいと願っているのです。

妻などは、遠藤周作氏の奥様の言葉だそうですが、宗教は人間が作ったものだから、山に登る登山口のようなものだと言います。

たくさんの道があるが、目指す場所は同じだと。

でも、私はそうだとしても、やはり見える景色は違うのじゃないかと思うのですね。

その遠藤周作氏と親交の深かった井上洋治神父は、「日本人とキリスト教」を生涯考え続けた方でしたが、近頃はその著作から学ばせていただいています。

私たち日本人の血の中に流れている自然への思慕、そしてこの国の風土と文化、それらをキリストの教えに融合させなければ、この国にキリスト教が根を降ろすことは決してないという危機感を司祭は持っておられました。

 

先日は、伊勢原市にある日向薬師に行ってきました。

道々に彼岸花が咲き始めていました。

鎌倉へも出かけてきました。

何カ所かのお寺を巡り、その庭を見てきました。

苔むした石や竹林、よく手入れをされた松の木、白砂、

そして秋を感じさせる風、どこかからかすかに漂ってくる金木犀の香り、鳥や虫の声、

静けさの中でそれらを感じるとき、間違いなく癒される自分がいます。

なぜ俺は日本人に生まれてきたのだろう?

どうしてですか?と、うっすらと笑みをたたえた菩薩像に、マリア様だ、と納得しながら尋ねます。

 

やまゆり園の事件の後、神奈川県では、「ともに生きる社会」を目指そうと、障がい者への差別や偏見をなくし、共に暮らす社会を目指そうとスローガンを掲げました。

とてもよいことだと思いますし、ぜひ実現させたいものだと思うのですが、私などは少しばかりの違和感を感じてしまうのです。

キリスト教の価値観では、共に生きる関係とは、夫婦など、互いのすべてを知り、知られた関係でこそ成立するものです。

私たちは隣人愛のうちに助け合い、支え合うことはしますし、できると思うのですが、共に生きるとなると相当な覚悟が伴います。

単に言葉の選び方だとは思いますし、言いたいことは分かるのですが、こんなところにも、宗教の不在を感じてしまうのです。

共に生きるのなら、共に死ぬのだろうか、と。

 

ひるがえって私たちレインツリーでは、共に働いて元気になろう、と言っています。

それが私たちにできる唯一のこと。

共に働くのです。

共に汗して働く中で、神を感じるのです。

驕らずに、

土に、花に、

そして自分と、相手の汗の中に、

時折吹く風の中に、

神に生かされている私たちが、神と共に今いることを。

 

ほとんど無意識のうちに神や仏を敬っている私たち日本人も、今いったん立ち止まって考えてみてはどうでしょうか。

 

「日本人とキリスト教」について知りたいと思われた方にはこちらをお勧めします。

「余白の旅」井上洋治著 

宗教なんて必要ないと思われている方には、

「キリスト教は役に立つのか」来住英俊著 がお勧めです。