ヒーローインタビューは見たくない。
ゲームの感動が興醒めしてしまうことが多いからだ。
日々の些末事を忘れて選手たちのスーパープレーに拍手喝采した後で、「素」の選手を見たいとは思わない。
スター選手はスターのままでいてほしいのだ。
隣のあんちゃん、ねえちゃんになってほしくない。
でもこういう感覚の持ち主は少数派のようだ。
多くの人がそのあんちゃんからさらに自分を感動させるコメントなりを聞きたがり、自分とそう遠くない身近な存在でいてほしいと考えるようだ。
今のスポーツ選手は大変だ。
パフォーマンスの外で、品行方正まで求められるのだから。
以前は、スポーツ選手に限らず人並外れた偉業を成す人はどこか凡人には当たり前のことができなかったりするものだという寛容さがあったように思う。
障がい者のスポーツ選手にも同じことが求められる。
困難を抱えながら、あるいは乗り越えたストーリーがあるから感動できるわけで、人として恥ずかしい振る舞いや他者を蹴落としても上り詰めるというような「ふさわしくない」行為はいらないというわけだ。
障がい者になりたいと思ったことはないだろうか?
私は多感な年頃に、障がい者に憧れた時期があった。
何不自由ない自分に焦りがあったのだろうか。
平凡すぎる自分が腹立たしかったのだろうか。
障がい者が羨ましいと思った。
ある時スケートボードで転倒し、足首をねんざして松葉杖をつくことになった。
皆の注目を集めるのは快感だった。
そんな不幸な私にちょっかいを出してくる同級生がいた。
そいつを鞄で思いっきり叩いたら打ち所が悪かったらしくうずくまってしまい、青くなった。
近くで見ていた女の子たちは、可哀そうな松葉杖の私を非難した。
からだが不自由であることへの陶酔は、ほんの数日しか続かなかった。
障がい者が不幸だなどと考えるのは傲慢でしかないと思う。
アスリートとしての彼のパフォーマンスを見てみよう。
それが良かったら、惜しみない拍手を送ろう。
大したことなければ、次に期待しよう。
過剰な評価は禁物だ。
きっと彼のためにならないから。
インタビューを聞かなくても分かっている。
彼が誰よりも努力して掴んだものを。
そんな彼を見て、多くの人が励まされたり落ち込んだりするのだろう。
それもまた人生だ。
無観客で行われるパラリンピック。
今回だけは、彼らの言葉にも注目してみようかと思っている。