最近、折につけ、中村哲氏のことを考えます。
氏がアフガニスタンで死んでしまってから、彼に関することを知るにつれ、畏敬の念を深くしています。
お恥ずかしながら私も多くの方と同様、氏が亡くなってからその人物と功績を知ったのでした。
小さな体にターバンのような帽子を被った姿は、本業の医師でも建設業の親方でもない、独特の愛嬌と雰囲気を醸し出していましたね。
そんな彼を多くの現地の人が信頼し慕っている様子がメディアに紹介されていました。
ネットを検索してみると、氏の格言集といったものをたくさん見つけることができました。
多くの人が氏に興味を持ち、彼の生き様から何かを得たいと思っていることの表れでしょうか。
彼の「一隅を照らす」という言葉が注目されているようです。
全体を照らすのではなく、一隅でよいと。
もとは天台宗の開祖、最澄の言葉とされているようですが、分かりやすい言葉に置か換えると、作家の渡辺和子シスターの「置かれた場所で咲きなさい」とほぼ同じ意味だと思います。
自分の境遇を恨んだりひがんだりせずに、今いる場所で最善を尽くしましょう。
自分自身がまず輝いて、辺りを明るく照らす存在になりましょう、とそんな感じでしょうか。
氏の場合はそれに、「誰も行かないところに行って」というのが先に付いていますから、凄味がありますね。
「理屈じゃない」ともよく言っておられます。
人助けするのに理由はいらないだろう、というわけです。
余計なことを言わない人だったそうですね。
メディアで見る温厚そうなお人柄と、勇ましさを兼ね備えておられた方なのかなと想像します。
その壮絶な人生が多くの人の心を揺さぶるようです。
私もそれに揺さぶられた一人ではありますが、特に関心するのは、彼が医者であることに拘らなかった点です。
もう一つは、現地の人たちが自分らでもできるであろう工法を、その水路造りに取り入れた点です。
並の人間なら、水路が大事と考えたとしても、自分には畑違いだから誰かほかの人にやってもらおうと考えるでしょうし、医者というステータスを手放すことなど思いもしないでしょう。
医者としてでもできることはもっとあったはずだし、医者でなければできないことはたくさんあったと思います。
水路を造るにしても、どこそこの立派な専門家を連れてきて、最新式のものをこしらえることだってできたでしょう。
でもそれだと自分たちでメンテナンスできないし、造るのを指をくわえて見ていることしかできない。
現地の人たちの手で造ることにすれば、仕事が生まれ、知識と技術が伝承され、自分たちがいなくなってもやっていけると彼は考えました。
石を割って鉄の籠に詰めたもので護岸をし、柳やオリーブを植えてその根によって補強するという方法は、現地の人にも分かりやすく参加しやすい、楽しい仕事だったようですね。
これらのことからも、氏が常に現地の人たちのことを最優先に考えていたことが分かります。
私たちが専門職やキャリアアップを目指すのは、ほとんどが自分のためです。
やりたいからやっている。それでいいと思います。
もちろん専門的な仕事には人のために尽くす仕事が多くあります。
私たちの福祉専門員と呼ばれる仕事もそうでしょう。
それでもやはり私たちは自分のために、または自分の家族や関係のある人などのために働きます。
何のために働くのかと問われたら、家族のためと答えることに躊躇しませんよね。
そしてそんな家族と自分を守るために、どれだけ自分のしていることが大変で重要であるかを周囲に知らしめようとします。
自分でなければできない仕事だと思わせるために、わざと難解な態度や言葉を用いたり、説明できないから見て覚えろなどと言って若手の台頭を許そうとしなかったり。
何をくだらないことをやってんだ、と氏ならば相手にもしないでしょうか。
そんなくだらないプライドだの保身だのは犬にでも食わせてろ、とでも言われるでしょうか。
では彼はなぜあんなことができたのでしょう?
キリスト者である彼は、聖書にある有名な「良きサマリア人のたとえ」を実践した人でした。
道端で倒れている同郷の人を、偉い人や賢い人は見て見ぬふりして過ぎていくのに、異教徒のサマリア人が手厚く対処するというイエスのたとえ話です。
また、「世の光、地の塩となれ」を目指した人なのかなとも思います。
かつて少数派であったキリスト者に向けられた言葉ですが、多様性が叫ばれる今ならば、障がい者やその他マイノリティと呼ばれる方たちに届けたい言葉ですね。
異郷の地で、自らが進んでマイノリティになり、平和を願う平凡な人たちと共に汗を流し働いた氏は、「絶対に必要なものは多くはない。おそらく変わらずに輝き続けるのは命への愛借と自然に対する謙虚さである。その思いを留める限り、恐れるものは何もないと考えている」と言います。
「神」を「自然」と表現する氏の、他者への配慮と思いやりを感じます。
最後まで恐れずに逝った彼のこの言葉は、今この状況に疲れ果てて倒れそうな私たちに、力を与えてくれるようではないですか。