若い頃は、休みの度に連れ立って出かけては疲れ果てて帰ってくるなんてことを繰り返していましたが、子供が親よりも友達同士で出掛けた方が楽しいなんて年頃になると、家族そろってどこかへ行ったりやったりということがめっきり減ってきます。
第一、行列、渋滞、空騒ぎといったことが苦手なうえに、夫婦で好き嫌いがはっきりしているので、家族で出かけても意見の衝突が起きて皆が不機嫌になることが多く、そんなことに辟易してか、近頃では誰もそんな提案すらしなくなりましたね。
そんなわけでこの連休も普段とさほど変わりなく、いつもの土日を過ごし、それ以外は仕事をしています。
好き嫌いというのは誰にでもあることだけれど、それを押し通すのか我慢するのかで大きく結果が異なりますね。
何かが好き、ほしいから我慢してコツコツ働きお金を貯めるのか、我慢をせず手段を選ばずに手に入れるのかではその後の人生に取り返しのつかない大きな差ができるでしょう。
食欲、性欲、物欲、〇欲、▽欲、これらを満たすために必死こいているのが私たちの現実の姿だし、これらに翻弄されているのもまた事実ですね。
欲をなくせば人生楽になるというようなことを言う人もいて、その通りかもしれないがそれじゃちょっと味気ない人生でつまらないし、なくせばと言ったってそんなに簡単にできるものじゃない。
能力ある人が売春やセクハラ行為でその地位を追われているのを連日のように見るにつけ、どうして我慢できなかったんだろう?と、怒りやら諦めやら何とも言えない理不尽な気持ちになります。
それをやっちゃったらまずいよということぐらい頭のいい人たちなのだからわかるだろうに、やってしまう。
これだけ性欲や自己顕示欲といったものをコントロールできない大人が多いというのは、やはり社会全体の問題として考える必要があるのじゃないかと思いますね。
翻って夫婦のあり方、結婚とは何かを考えてみる価値はあると思いますし、不倫は文化だなんて言った著名人がありましたけれど、そんな日本人と、妻以外の女性とは二人きりで食事をしないルールにしていると公言する外国の要人と、どっちが人として成熟しているのか、どっちが豊かな人生を送っているといえるのか、そんなことを考えてみるのもどうでしょうか。
「煩悩が多すぎるんです」とその悩みを私に打ち明けた利用者さんがいましたが、この人類普遍的とも言える悩み事について私が何と答えられるでしょうか。
それで、「私もですよ」と応えると、嬉しそうに驚いて見せた彼でしたが、それで少しでも彼の悩みに応えられたのならよかったですが。
幸いにして私には物欲というものがあまりありません。
だから一人にしておくと物が増えない、ばかりかどんどん減っていく有様です。
いいなあとは思ってもいざ買おうかというと本当にこれでいいのだろうか、他にもっとふさわしいものがあるんじゃないか、今あるもので別に困らないしまあいいか、となってしまうことが多いのです。
別にケチなわけではありませんよ。
所有欲というものが少ないのかもしれませんね。
買い物の面倒臭さとストレスが時に耐えがたいので、選んで買うよりもあるもので我慢する方が楽なのかもしれません。
割と男性に多い何かを集めるという趣味もありませんし、古くなったものを捨てることにほとんど躊躇もありません。
そんな私が自分の家を持つことになるとは全くの予想外でした。
若い頃は旅から旅の人生(フーテンの寅さんやマカロニウエスタンのガンマンのように)に憧れていましたので、生涯根無し草の貸家暮らしで充分と考えていました。
結婚しても、どこかに定住という考えがなかなか落ちてこなくて、何よりも安定を望む妻の強い要望からそうなっただけのことです。
でもそうしてみると、それはそれで決して悪いものではなく、家族の喜ぶ姿を見るのが何より自分のほしいものであったのを知ることになったのでした。
そんな風なのは、やはり親の影響が大きいでしょうか。
私の父は転勤族でしたから、子供の頃はしょっちゅう引越しをしていました。
小学校も二度転校をしています。
弟が一人いますが、両親を含め全員がB型という、てんでバラバラの家族でした。
皆が自己チュウでそれぞれの世界がある感じなので、仲が悪いわけではないのですが、特別家族らしい交わりといったようなものを必要としてこなかったんですね。
ですから妻にしてみれば、あるべきものがない、おかしい、変だということになり、私はそんな常識的な妻に合わせるような格好で、彼女のほしいものに囲まれた生活に馴染んでいったのでした。
でも自分の子供たちを見ていると、ほしいものだらけなのです。
小学生の娘の筆頭はスマホ。
みんな持ってるし、ラインとかやりたい。
コミュニケーションが未熟なくせにそんなトラブルのもとになりそうなものをなぜやりたいのか理解に苦しむところですが、今の子供にとってみれば分からないでもない。
でもやはり少しは我慢するということも人間形成の上では必要なので、簡単には与えません。
簡単にモノが手に入るということはある意味幸せなことではあるのだろうけれど、恐ろしいことです。
簡単にモノが手に入ることに慣れてしまっていると、大人になって簡単にいかないことが増えてきて非常に苦しむことになります。
そういう人たちが色々トラブルを引き起こしているように思えますね。
だから子供には我慢をさせないと、と思います。
でもその我慢も、しなければいけない我慢と、してはいけない我慢がありますね。
プロのスポーツ選手を目指すのなら苦しい訓練を我慢しなければならないでしょう。しかし度を超えたシゴキを我慢する必要はありません。
仕事のために毎日満員電車を我慢しなければいけないということはあるでしょうが、毎日死ぬほど残業したり、理不尽な罵倒やセクハラを我慢する必要はありません。
我慢強さが美徳とされるこの国では、我慢強いということは社会人として当然に必要なスキルであって、確かに我慢ができなければこのストレスフルな社会で生きていくのは相当に困難であるに違いありません。
でも本来は、そんなに我慢しなければならないことが満ち溢れている社会に問題があるのであって、それを我慢しないという選択をすると生きずらいことになるというようなことの方を変えていかなければならないのじゃないでしょうか。
我慢のならない事や振る舞いをする人が減ってくれるのは嬉しいことですが、決してなくなることはないのですから、自ら防衛するしかないですよね。
何に我慢をしなければならないのかは人それぞれですが、完璧主義をやめ、折り合いをつけるとか、自己否定をやめ、自分は掛け替えのない存在であることを知るとか、時には空気を読むのをやめ、知らんぷりを決め込むとか。
試してみてもよいことはたくさんあると思います。
人生は欲との戦い。
ちょうどいい塩梅で我慢ができるようになりたいものです。