久しぶりのブログです。
公私ともに怒涛のような半年が過ぎ、あっという間にこの一年も終わろうとしています。
大きな波を超え、この年の押し迫ったこの時期にようやくこうして静寂が与えられたことに感謝しています。
クリスマスですね。
いつもの朝のラジオから、一人ぼっちでクリスマスを過ごす人をクリボッチと呼び、そうした人向けのアザラシにハグできるサービスなどが紹介されていて、思わず笑ってしまいました。
クリスマス。
それはキリスト教の伝統であり行事であり、本来それほどロマンチックなものでもありません。
今から二千年以上前にパレスチナの土地に生まれたイエスという人が、成人してユダヤ人の救世主と目されたが、その期待に応えなかったために反逆者として十字架刑に処せられて死に、しかしそのかつての弟子たちが復活したイエスに出会ったり、彼から見聞きした奇跡を思い起こしたときに、やはり彼は彼が言っていた通り神の子だったのだと確信を得て、その後命を賭して彼のことを教え伝え広めていきました。
そしてその彼のことを忘れないようにと、彼が十字架刑の前の晩に行った最後の晩餐の儀式、彼の言動を記した聖書、そうしてそれらを伝えて死んでいった弟子たちとその継承者たちの生き様を通して、今日まで伝えられ続けてきた宗教がキリスト教です。
神の子イエスの降誕を喜び、その死と復活の意味を信じ、そしてそのイエスが再び訪れるのを信じて待つ。
何でも簡単に手に入り、待つことは損失だとさえ教えられてきた私たちに、待つことの大切さを教えてくれます。
ある意味私たちは、いつか確実に来る死を待ちながら生きています。
そして死んだらおしまいでなく、その先にあるステージためにどう生きるのかを教えてくれます。
先日のミサでの司祭のお話に、「喜んでいますか?」という問い掛けがありました。
そして「あなたは喜びをもたらす人ですか?」さらに「あなたは喜びを伝えていますか?」とあって、小さな動揺を覚えたものです。
「喜び」のところに他の単語を入れてみてもいいですね。
例えば「不安」。
不安ですか?不安をもたらしちゃっている人じゃないですか?とするとドキッとする方もいるかもしれません。
不安の反対は「愛」です。
それも神への愛。
神との信頼関係を築きなさい。神との縦の関係が大事です。親だの会社の上司だの部下だのはすべて横の関係です。縦の関係を築きなさい、とそんなことを教えてくれます。
世界各国に二十億人とも言われる信者がいる中で、日本では人口の1%にも満たないというのは、日本には日本の優れた伝統的な神々がいるのになんでわざわざそんな外国の、、、という特別な民族意識が色濃く残っているからでしょうか。
それでもおいしいところだけはすくって食べてしまえるのが日本人のすごいところでしょう。音楽にしろアートにしろその背景の宗教に深入りせずとも楽しんでしまえるのはある意味すごい才能ですよね。
それにしても、クリスマスしかり、最近ではハロウィーンが盛り上がっていますね。渋谷という大都会の真ん中で白昼堂々とトラックが数人の男らによってひっくり返されたことには驚愕しました。こんなことが起こる国になってしまったのかと。
宗教教育がタブーとされて、私たちは何によって立つのか、一人一人が自由に決めていいことになっているのが今の社会ですね。
誰も教えてくれないから自分で見つけるしかない。
ある人にとってそれは家族、ある人にとってはお金、ある人にとっては成功と名誉、ある人にとっては、、、
キリスト教を信じる前の私は五里霧中、手にも足にも確たる感触が何もない中でもがき続けているようでした。
私にとってはたまたまそれがキリストであって、他の人にはそれが仏であっても、アラーであっても、アマテラスでも、目指すところは皆一緒、そんな風に思っています。目指すのは天国、約束された死後の楽園。キリストが再び来られ、いつかこの世は終わるのだそうです。ですが、キリストは雲の上から大軍勢を率いて来るのじゃない、私たちの心の中に来られるのだと思うのです。いやもうすでに来ているのかもしれませんね。
そんな風に言うと、敬虔な信者の方には怒られそうですが。
キリスト教にも様々な宗派なりがあって、その地域民族によって様々です。何千年も経て語り継がれていくうちにそうなっていくのは自然なことのように思えます。
日本にもかつて九州を中心にキリシタンと呼ばれる人たちが爆発的に増えていった時期がありました。
当時のあの人たちは外国の宣教師たちをなぜそうして受け入れていけたのか不思議ですね。それはやはり同族の人間たち、とくに権力者たちが信じられなかったからでしょうか。そこへ身分も国もない、誰でも信じれば天国へ行けるという宣教師たちの教えは、過酷な生活を強いられている人々にとっては藁をもすがる思いだったのかもしれませんね。
先日、娘の合唱団が参加するクリスマスチャリティコンサートが、カトリック八王子教会であり、出掛けてきました。天井の高いコンクリート造りのカテドラルで、男女大学生のグループと一緒に子供たちの歌声がまるで天使の声のように響きました。
御御堂に入ると、まず正面奥の壁に磔刑のキリスト像、祭壇があって、その横にマリア像、反対側の壁にミサで歌う讃美歌の番号を示す木札、そして御御堂をぐるりとイエスがエルサレムで捕縛されて死に向かうまでの一連の出来事が「十字架の道行き」として額縁に絵で並べられています。
合唱団を率いる先生がカトリック信者であるということで、マリア様を讃える曲が多かったのが印象に残りました。
マリア様。
イエスの母親。
処女にしてイエスを生み育て、その死まで寄り添い続けた母親。
亡くなった後天にあげられ、私たちのために神へとりなしの祈りを捧げ続けてくれているという聖母。
そして今でも世界各地でそのお姿を見たりした人たちが奇跡に預かっているといいます。
カトリックはこの聖母マリアを信じる宗教であると言ってもいいくらいに変容していきました。
宗教があるから争いが起こるんだ、宗教なんてなくなればいいと無宗教を主張する人たちも増えていると聞きます。
しかしそうでしょうか、もし宗教がなかったらもっとひどいことになっているのじゃないかと私は自分自身を振り返ってみてもそう思うのですが。
オウムの影響が大きかったと、牧師さんや神父さんらは言いますね。
あれで一挙に宗教離れ、宗教嫌いが広まったと。
でも近頃は、週末にするお遍路や、山寺での体験宿泊といった宗教体験の企画などが人気だとか。
都会で働く女性たちに特に人気というのも分かるような気がします。
人手不足が盛んに言われ、女性はもちろん、高齢者だって、障がい者だって、外国人だって働いてもらわなくちゃ国の経済が成り立たないなどと権力者たちは言いますが、本当でしょうか?
多くの人が働けるのはいいことでしょう。しかし食うために命を枯らしてまで働かなくちゃいけないところまで追いつめられる人たちが多い状況こそが本当は変えなければいけないなのじゃないでしょうか。
いつも順番が逆だと思うのですね。
女性が外で働くためにはまず男性が働き過ぎを止めないと。
障がい者が働くためにはまず成果主義を変えないと。
外国人が働くためにはまずその人たちのことを知らないと。
このところ、利用者さんの親御さんが亡くなるということが続いています。
利用者さんが齢を取るにつれ、当然そういうことも起こってくるわけです。
それをきっかけにグループホームに転居したりなど、ある意味で自立が促され、支援者の層が厚くなったりしていきます。
生前あるシングルマザーの親御さんは、末期癌であることを打ち明けた後で、グループホームなどの検討を勧める私たちに、「もう少し一緒にいたいので」とやんわりと拒否されたのが印象に残っています。
今はそのグループホームも決まり、仲間や職員さんたちに馴染んで楽しく過ごせているようで、天国のお母さんもほっとしていることでしょうね。
子供を産み育てるという人生での一大事がもっと尊重されないとと思います。
そしてそれは本来夫婦の間で行われるものですし、出産は女性にしかできない特権です。
もちろん選択肢はたくさんあるべきだし、したくてもできない状況には十分理解と配慮が必要だと思います。
「同性愛は一種の流行」とローマ法王が出したコメントには批判もあったようですが、頭では理解し寛容に振舞おうとするものの受け入れがたいとするのは無理もないと思います。
命は神が与えたもうものから出発する宗教にとって、それをないがしろにするような自由と行動は何とも受け入れがたい。しかしそんな人たちをも神は愛しておられる、そこで葛藤が生まれるのですね。
結局のところ私たちは、私たちが知っていることなど、まだまだほんのちっぽけなもの、最先端の科学者や学者たち、ローマ法王でさえそうであろうことを認めるべきなんじゃないでしょうか。
私たちはまだ何も知らない、どこから来てどこへ行くのか、誰もまだ知らない。
私は死ぬときは交通事故とかそんなのだけは勘弁してほしいと思っています。
いつの間にか死んでいるなんてのは嫌ですね。
ピンピンコロリがいいなどという人がありますが、そんなのはごめんです。
ああ死ぬんだなと心の準備ができるのがいい。
それが苦痛を伴うものであっても、そのほうがいい。
その時に神を見ると思うのです。ぜひ見たい。お会いしたいものです。
だからミサで祈るのは、もっぱら神の存在だけです。
「いてくれますか?」「私といつも共にいてください」と。
ああしてほしいとかこうしてくださいとは祈りません。
だって神は私のすべてをご存じだから。
私が何を考え何をやらかすのか全て知っておられる。
恥ずかしい過去や、やさしさ、憎しみ、嘘までも。
だから「ありがとうございます」としか言えません。
金持ちが神の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るくらいに難しいのだそうです。
この世のお金や知識や名誉や愛に満たされると、目がくらんで入口が見えなくなってしまうのでしょうか。
一人寂しくクリスマスを過ごすあなたには、見つかるかもしれませんよ。
〖恵みあふれる聖マリア、主はあなたとともにおられます。主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました。神の母聖マリヤ、罪深いわたしたちのために、今も、死を迎えるときも祈ってください。アーメン。〗
メリークリスマス!