暦のうえではもう夏ですね。
いつもなら、薄着になって外へ飛び出したいところですが、今年はそうもいきません。
そんな中でも普段とさほど変わらない忙しい日々を過ごしています。
私たちの障害福祉サービス事業は、障がい者の方たちが社会生活を営むうえで必要な事業として、継続を求められています。
そうは言っても、介護が必要なほどではない方々が対象の私たちのような就労支援サービスの場合は、停止されたところも多いと聞いています。
レインツリーでは、厚生労働省が示されたガイドラインに沿って、対策を講じ、なんとか続けています。
しかしそれは利用者さんご自身が、またそのご家族が望むことが前提になりますから、まずアンケートを実施したり聞き取りをしました。
その結果ほとんどの方が継続を希望されました。
外に出ないリスク、行ってはいけないところに行ってしまうリスク、そんなことを考えてのことだと思います。
それでも三つの密を避けるためには、時差出勤と時短勤務をせざるを得ませんでした。
そのような変化に皆が対応できるか心配でしたが、それも杞憂でしたね。
基礎疾患をお持ちだったり、不安が強い方などは在宅支援に切り替えましたが、こちらも今のところ大きな問題もなく行えています。
私たちはつい、転ばぬ先の杖を置きたくなりますが、こうしてみてあらためて皆さんの逞しさを実感させられているところです。
それに対する職員も、家庭でも色々とご苦労があるなかで、使命感をもって献身的な働きを見せてくれています。
経営者としましては、日々さまざまな決断を迫られるなかで苦しい時もありますが、あらためて皆さんのおかげ、と感謝しています。
長期戦の様相を呈してきた今回の事態に対処するため、私たちはさらに様々に知恵を巡らせ行動に移していくことが求められますね。
幸いにも時間があるのですから、ぜひともそんな学びの時にしていきたいものです。
私たちは慣れ親しんだ思考法や振る舞いを見直すように迫られているように思います。
死生観や人生観といったものを揺すぶられる体験をしているのですから。
今は何不自由ない方でも、この先は分かりませんね。
これはある意味ではチャンスかもしれないのです。
人生を変えるチャンス。
誰の人生にも必ず何度かそんなときが訪れます。
しかし多くの人はそれをものにすることができません。
チャンスが訪れているのにすら気が付かない人もいることでしょう。
どうしたら気付けるでしょうか。
「ポストコロナ」といった類の情報はすでに溢れているのかもしれませんので、私が何を言うべきか迷うところですが、あえて一つに絞るとすれば、「命」という言葉の前に思考停止にならないようにしたいということです。
人の命が大事なのは、なにも時の為政者やテレビのアナウンサーなどから連発されずとも、子供たちだって知っています。
しかし、「なぜ大事なの?」と尋ねられて即座に答えられる大人がどれだけいるでしょうか。
なぜって、そんなの当たり前じゃないか、ですか?
それなら私たちは普段から命を落とさないように十分に注意をして行動しているでしょうか?
車や電車や自転車に轢かれて命を落とさないように、腐った果物や得体のしれない食品を口にして命を落とさないように、暴漢に襲われて命を落とさないように、ストレスで自ら命を落とさないように、等々。
また、交通事故で失った命とウィルスで失った命にどんな違いがあるでしょうか?
戦争で失った命とは?
その命を救うために働く医療関係者とゴミ回収業者の方の命にどんな違いが?
あるいは、休業要請された仕事につく人とそうでない人の命には?
そんな問いに答えられるでしょうか?
津久井やまゆり園の重度障がい者十九名の命を奪った男の裁判が行われ、死刑判決が確定しましたね。
人を殺すという行為は許されるものではないですが、障がい者はいなくなればいいという彼の主張は、程度の差こそあれ、私たちの周囲にありふれて見え隠れしています。
施設の職員として働き始めた当初は、彼らに好意を持ち、仕事にもやりがいを感じていたらしいということが、重くのしかかってきます。
障がい者が暮らしやすい社会は皆が暮らしやすいはず、とそういう思いをもってこの仕事に取り組んでいるつもりです。
障がい者が暮らしやすい社会とは、ひとことで言えば「寛容」な社会ということになるでしょうか。
先だっての国連の世界幸福度ランキングでは、日本は昨年よりもさらに順位を下げて六十二位だそうです。
六つの項目のうち、「寛容さ」が特に低く、先進国では最低だそうな。
寄付する習慣が少ないことが原因とも言われていますが、寄付するという行為の前には必ず「関心」があるはずです。
震災などの時にはそうした関心が集まりやすいですね。
私たちは今、とても不便な生活を強いられています。
やりたいことができない、やらせてもらえないという、なんともしんどい思いを経験させられています。
でも世の中には、この騒ぎの前の普段から、こういうしんどい思いをしながら生活をしている人たちがいるのです。
障がい者なんだから仕方のないことでしょうか?
障害があろうがなかろうが皆しんどいんでしょうか?
だから関心がないのでしょうか?
であれば企業で働くのも仕方ないことなのでしょうね。
障害があろうとなかろうと、人は生きていくために働かなければいけないのでしょうね。
今、働きたくても働けない人たちが大勢います。
選んだ仕事はその人を表します。
だから自業自得なのでしょうか?自己責任?
今、仕事ばかりかアイデンティティをも失いそうな人が多くいると聞きます。
そういう方にあえて聞いてみたい。働かない障がい者は生きる価値がないと思いますか?
どんな障がい者も、企業やその他さまざまな共同体で働ける社会が理想でしょう。
それが実現できれば、きっと津久井やまゆり園のような施設も、山奥にある精神科病院も、立派な建物の特別支援学校も、必要なくなるのでしょうね。
私たちの作業所などもそうです。
ひょっとするとパチンコ店やナイトクラブなどもそうかもしれません。
我々事業者は「必要悪」であるという自覚を持たないといけないのかもしれません。
寛容な社会が現れた時には、仕事がなくなってしまうかもしれないのですから。
人間とは、なんと矛盾を孕んだ生き物でしょうか。
性善説と性悪説、こんなところから学び始めるのもいいかもしれませんね。
それとも、考えても答えの出ないことは放っておいて、その時々のことに集中するのがいいのかもしれません。
ロザリオを繰って神に祈りを捧げたかと思うと、庭のナメクジ退治に、撮り溜めたテレビドラマを見て笑う妻から、そんなことを学ばせてもらっている今日この頃です。