正直に言って、このところ体調がすぐれません。
なんだか鬱っぽいのです。
なぜだろうと思い巡らせてみても、いまひとつ原因が分かりません。
男の更年期もあると言うし、
季節の変わり目に身体がついていかないのか?
確かに気圧の変化に敏感になっているようで、時々頭痛も起きる。
「新しい生活様式」というけれど、もともと出不精だし、人付き合いもほとんどない。
週に一回のスポーツジムと教会のミサがなくなったのには最初戸惑ったけれども、それにも慣れた。
仕事は休業要請もなく、とは言っても利用者さんには影響が出るだろうと思ったけれど、今のところ感染者も出ずに、時短利用にぶつくさ言うくらい皆元気で、収入も減ることがないから、国の助成金を利用することもなく、当面は資金繰りに頭を悩ますこともなさそうだ。
とは言え、毎日情報収集をしないといけないし、変化があるごとに対策を講じ、漏れがないかどうか、何かやるべきことを見落としてないか、常に何か考えていて、脳が休まる時がないのかもしれない。
中小企業の社長は皆そうだと自分を励ましてみ、前はこんなことはなかった、むしろどんな時でもむやみにポジティブで、周囲を振り回し疲れさせていたのに、今はその元気が出ない。
むしろこれをチャンスと捉えて、などと少し前は自分でも言っていたくせに、今はそんな風にいかにも人の好さそうな笑顔に出くわしたりすると、むかっとしたりする。
空元気を無理やり振りまいているような人を見ると、心底お気の毒と思ったりもする。
「笑わなくちゃ」と妻に言われるのだが、笑えることなどどこにも見当たらない。
「頭を空っぽに」するためにユーチューブのヨガの先生に倣ってやってみるが、やはりうまくいかない。
こんな時に趣味の一つでもあればいいのかもしれないけれど、それもない。
「料理でもしてみる?」と言われるのだが、保留、検討中だ。
つくづくつまらない男だと思う。ツケが回ってきたのか?
なぜ皆と同じようにできないのだろう?
皆適応するために、新しいつながり方を模索し、実行し、健気ではないか。
適応障害?
そうなのかもしれない。
インターネットが普及し始めた時も大変だった。
やっと慣れてきたけれど、正直言って大の苦手だ。
パソコンやテレビ画面に映るコマ割りの顔と顔、
男も女も無口なほうがよいなどという時代は終わった。
すでに経済的に限界を迎えている人が大勢いるようだ。
倒産する会社も、失業者もますます増えていくだろう。
自分は幸い今のところそれを免れてはいる。
しかし周りで苦しむ人たちが多いのは辛いことだ。
何とかならないだろうか。
自分の無力さが腹立たしい。
何かできることはないだろうかと何気なくネットを眺めていると、
「ベーシックインカム」という言葉に行き当たった。
フィンランドがやろうとしているなどというのは前に目にしたことはあった。
調べてみると、「これだ!」という感覚があった。
オランダやスペインの一部の都市でも実験が行われている。
導入には至らなかったようだが、このコロナの経済への大打撃で各国が再び導入を検討する動きが出てきたそうだ。
ベーシックインカムとは、政府から毎月決まった金額が国民全員に支給される制度のことだ。
日本の政党も目立たないけれど、導入に賛成の立場をとっているところが多いようだ。
今回の一人十万円の給付金も、それを意識してかどうかは分からないが、ベーシックインカムに似た制度と言えるだろうか。
当の政権与党は導入には反対の立場を表明しているようだが。
メリット、デメリットについてはいろいろ論じられているので、興味を持たれた方はぜひご自分で調べてみるといいですが、私自身の拙い知識からはメリットの方がはるかに大きいような気がしています。
聖書には、「ぶどう園の労働者」の話と呼ばれる箇所があります。
レインツリーの前身、以前のNPOで立ち上げた事業所「青葉ぶどう園」の名称はここからとったものです。
作家の曽野綾子さんは、「私を変えた聖書の言葉」という著書の中で、いかなるできのいい短編小説でもこうは鮮やかに描き切れはしないだろうと思うほどの、深い、複雑な状況と人間の心を見せてくれると書いておられますが、私もこれに出くわしたとき、何か心のつっかえが取れたような、そんな思いがしたものです。
そしてこれ、ベーシックインカムとも通じるところがあると思うのですね。
それほど長くはないので、その箇所を紹介します。
{マタイによる福音書20章1~16節}
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出かけていき、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、他の人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『誰も雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか。それとも、私の気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
そう、この不可思議な物語の主題は、神の救いとはこのようなもので、信仰の期間や、人種などとは関係なく、すべての人がキリストによって救われるのを神は望んでおられる、というものです。
しかしここには、人々が労働の対価として得る金をめぐっての契約のあり方などについて、現代の資本主義社会に暮らす私たちの心を揺さぶるものがありますね。
もちろん国の為政者や企業の経営者は神ではありません。
が、このような神のなさりようを真似てみることはできるでしょうし、それはけして罪ではないでしょう。
これを機に、ぜひベーシックインカムについての議論が盛り上がるのを期待します。
私たちも、利用者へ支払う工賃については成果主義をとらない独自な方法を用いてきました。
しかしここでもう一歩、前へ踏み出し、最低工賃保障制度なるものを導入してみようかと思い付きました。
時短利用を強いられて、工賃の減ったのを嘆いておられる皆さんに、それで少しでも安心を届けられたらと思います。
みんなの喜ぶ顔を想像したら、少し元気が出てきましたよ。