今回は読書の話をしたいと思います。
私たちの身体は食べたものでできていると言われ、それはそうでしょ、と思いつつも、思わずジャンクフードに手が伸びてしまう方が多いと思うのですが、
同じように、人は読んだものでできていると言われても、そんな悠長な時間などないし、だいいち字を読むなどというのは苦行以外の何物でもないという方も多いのじゃないでしょうか。
そういう方に、読書の醍醐味を語ってもなかなか理解してもらえないでしょうし、何にも勝って本を読みたいのであり、その至福の時間を味わいたいのですが、暇つぶしにしか見えないかもしれませんね。
私たちの福祉の仕事は、コミュニケーションビジネスと言われるくらいに、話す、書く、読む、聞く、接する、観察する力が求められます。
それゆえに、将来もAIに取って代わられることはないと言われるようですが、本当でしょうか?
時折、我社でも、そんなことを危惧せざるを得ないような会話や文章、人間関係に遭遇します。
福祉職員向けの様々な研修がありますが、それよりも良い小説を一冊読んだ方がどれだけ肉となり血となるか、と声を大にして言いたいくらいです。
とは言え、そんな職員に、これを読めとはなかなか言えないものです。
当たり前ですが、自分によかったものが他人にもよいとは限らないからです。
「福祉職員こころの強化書」は半ば強制的に読ませても、「騎士団長殺し」はそうはいきません。
読みたい、読まなければという本は数多あって、どこから手を付ければいつ頃終わるのだろうなどと思ったりもしますが、大御所や古典は後回しにして現代作家に目を向ければ、村上春樹氏の作品はやはり避けては通れないだろうと思います。
「ノルウェーの森」が初めてでしたが、発行当時私は二十代の前半で、アメリカから帰国して自分探しの真っ最中でしたから、作中の人物に自分を重ねてみるのは割と容易なことでしたし、私のようなナイーブな若者が、こぞってこの作品を買い求めたものでした。
内容はなんだかよく分からないものの、その洒落た世界観とセンシティブな言葉使いにカルチャーショックを受けたのでした。
それから他の作品もむさぼるように読みましたが、彼の一言一句読みやすい丁寧な文章は相変わらずで、一方の私は人生の荒波に揉まれていき、そんな私には彼のその静かな語り口が物足りなくなってしまい、氏が毎年のようにノーベル文学賞候補に名前が挙がっても、また再びその本を手にすることはなかったのです。
ですが、今回の「騎士団長殺し」は、まずそのタイトルに魅かれました。
そこにはもう初老と言ってよい年齢の作家の新境地のようなものがあるに違いないと思わせるものがありましたし、こっちもそれなりの年齢に達していますから、彼の言わんとすることがやっと分かるのじゃないかという期待があったわけです。
実際読んでみて、共感と言ってよいでしょうか、理解できたような気がしました。
好きな作家にようやく追いつけたように感じることができたのは、とても嬉しいことでした。
それにしても千ページからの長編ではありましたが、読み切るまでに半年もかかろうとは思ってもいませんでした。
読書には環境が必要です。集中できる場所と時間が。
それを見つけては読み、次の機会が現れては読みでしたから、そんなにも時間がかかってしまったのですね。
好きな読書もできないほどに他のことに追われている自分は一体何なのだろう。
そんなことを改めて考えさせられもしましたし、読書ができる贅沢を実感できたのは収穫でした。
もう一人、ずっと気になっていた作家がいます。石牟礼道子氏です。
氏の代表作「苦海浄土」は読まなければと思いつつも、水俣病の水俣事件が題材だけに、重たすぎるように感じてしまっていたのです。
それでも氏が一昨年前に亡くなられて、その功績を称える多くの文中から「春の城」という作品を知り、これはもう神の声と思いました。
天草四郎で知られる「天草島原の一揆」を、まるで時空を超えてその地に空から降り立って見て書いたかのような生々しい筆跡と、天草と島原の人々の生きざま死にざまに胸を打たれました。
水俣事件の加害者であるチッソ本社に抗議の座り込みをした氏は、乱を起こした人たちと自分はつながっていると感じたと言っておられます。
母方の先祖が熊本でキリシタンではなかったかということも影響しているようですが、人の哀しみを受けてもだえ苦しむ天草の神のようだったという氏の生きざまをも見たように思いました。
歴史小説のようにもドキュメンタリーのようにも読める作品ですが、過去に実在し亡くなっていった人物らの生と死の営みを、そこにあった自然と、天と地と人々をつなぐ祈りを中心に据えて見つめた時に、あの人たちと私はつながっていて、あの場に私はいた、とすら彼女は感じたに違いない、とそう思いました。
彼女は亡くなりましたが、作品は残ります。
それは素晴らしいことですね。
他の作品も読まなくてはと思いました。
最後にもう一冊紹介します。
「ファクトフルネス」~10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣。
医師でもあり思想家でもあるハンス・ロスリング氏の最後の著作。
この方も最近に亡くなっていますね。
2012年には、タイム誌が選ぶ世界で最も影響力の大きな百人にも選ばれた人だそうです。
こちらは小説ではないし哲学書でもない。
ノウハウ本の類ともビジネス書の類とも言えなくもないが、テーマは小さくない。
正しく世界を見るにはどうしたらよいかを教えてくれる本です。
ユーチューブでこの本が紹介されているのを見た妻が買ったものです。
普段は本よりも、どちらかというとテレビとラジオ、ラインでの情報交換に熱心な彼女が、急に何を思い立ったか。
「騎士団長殺し」を読み終えたところで、次の小説の合間にはちょうどいいと思いました。
こういう本の合間に小説を読むのがいいのだろうか、と反省するほど勉強になりました。
これはぜひ我社の社員にも勧めたいと思いますね。
その世界が地球規模であれ、生活する自治体規模であれ、働く会社規模であれ、その世界を正しく見るということに役立つこと間違いなしです。
それにはまず、私たちの本能に気付くことから始めなければならないと言います。
例えば、ネガティブ本能。
世界はどんどん悪くなっているという思い込み、です。
この本能を抑えるには、悪いニュースの方が広まりやすいと覚えておくことが肝心とのこと。
宿命本能。すべてはあらかじめ決まっているという思い込み。
これを抑えるには、ゆっくりとした変化でも変化していることに心を留めること。
犯人捜し本能。誰かを責めれば物事は解決するという思い込み。
これを抑えるには、誰かを責めても問題は解決しないと肝に銘じること。
焦り本能。今すぐ手を打たなければ大変なことになるという思い込み。
これを抑えるには、小さな一歩を重ねよう。と教えてくれます。
彼だったら、この新型コロナウィルスのパンデミックをどう捉え、どういうメッセージを発してくれただろう、と考えてしまいます。
本の中でも、今後心配すべきグローバルなリスクの一つとして感染症をあげておられますから。
けれども彼によれば、この世界は多くの人が考えているほど悪くないし、現に以前と比べたらずっと良くなっている。
そしてこれからも良くし続けるために私たちに何ができるか、事実に基づいて世界を見ることのできる人たちによって、様々なことが考えられ、実行に移されている。
だからきっと今回のこのウィルスもいつか克服できるはず、とそう言われるでしょうか。
石牟礼道子だったら、先だっての熊本の洪水をどう見るだろう。
被災された人たちに寄り添ってもだえ哀しむだろうか。
ボランティア頼りの復興作業に憤りを覚えるのじゃないだろうか。
他県からはお断りだって?何をこの期に及んで。だったら何ができるか考えようじゃないかと。
何年かしたら、また村上春樹の新しい物語が生まれ、その中にこれらのことが表現されるかもしれません。東北の震災が今回の物語に現れたように。
物語はフィクションでも、今を生きる作家が見たこと経験したことは事実だ。
現実とは思えないようなことが日々起こる中で、それらがさらにアップデートを繰り返している。
あなたは何を信じますか?
あの事とこの事、誰かと誰か、それらがつながっていると信じられますか?
でも信じるしかないでしょ、と作家は言います。
そう、物語に語らせているだけ。
それをどう感じるかは読み手次第。
想像力をフル回転させなければとても追いつくことはできません。
だからもっと世界を知りたいと思う。
でもどこから手を付けたらいいか分からない。
その時この「ファクトフルネス」が役に立ちそうだ。
ただ、数字だけで世界を見ようとするのも危険だ。
世の中は不条理や理不尽なことでいっぱいだから。
時には戦わなければならないこともあるでしょう。
そんな戦い方を教えてくれるのも書物だったりします。
「春の城」もその内の一つだ。
この世界で理不尽な目に遭わないように、またそんな目に遭った人を助けられるようになりたいなら、まず読書しましょうか。