このところ、月に一度は名古屋へ出掛けています。
親会社との会議に参加するためです。
新幹線と駅から徒歩十分の行き帰りだけですから、名古屋を特別に感じるということもないですね。
若い頃なら、せっかくだしどこそこへ行って何やら楽しもうとなるのでしょうが、そういう好奇心とエネルギーはもうないですね。
子供時分からお祭りとかイベントとかが嫌いでした。
夏休みに転校を繰り返したせいか、特に夏祭りは一人孤独を感じる場所でしかなかったのです。
夏休みを知り合いが一人もいない地域で過ごすのは子供にはしんどいものがありました。
だから祭りが終わるとほっとします。人々が興奮している姿を見なくて済むからです。
何事もない普段の穏やかな日に戻れるのが嬉しかったですね。
今年の夏はまたそんな子供時分の感覚を思い出すようです。
この祭典が早く無事に終わってくれるのを祈るばかりです。
それにしてもこのウィルスは、私たち人間社会のあり様を様々に映し出してくれるようですね。
ここにきて、私たちの社会の不寛容さがむき出しになった感があります。
大会の関係者が過去の言動の責任を取って辞任することを歓迎する空気には違和感を覚えます。
「言語道断」と切り捨てた国のリーダーの言葉には背中に寒いものが走るようでした。
確かに非難されても仕方がないようなことをやらかしたとは思いますが、それを完膚なきまでに潰そうとする声の大きさと、さほど抵抗することもなく、さっさと危険地帯から身を引く軽さには驚かされます。
不寛容というだけでない、寒々しいものがこの社会を覆いつくしていて、私たちは声も上げずに祭りを見ている。
比較的幼い頃に悟ってしまったこの世の不条理を改めて見せつけられたようで、私のような子供が増えるのを心配してしまいます。
何かに賛同や批判をする前に、まず受け止めるのが「寛容」の一歩だと思っています。
まず一旦受け止めて、考えてみる。
いろんな方向から眺めてみる。
完璧な答えなどないし、完璧な善人も悪人もいない。
見えているのはその人のほんの一部分という視点を持てば、軽々しく判断することなどできっこないでしょう。
ホロコーストを茶化したり、障がい者をいじめたりはいけないことです。
人を殺すのはいけないというのと同じくらいいけないことです。
でもそういうことを過去にやっちゃった人に、今のその人を考慮することもなく非難することに躊躇のない社会は怖い。
叩いたらホコリの出ない人などいますか?
私は間違えないんです、と言った社員が以前いましたね。
しんどい生き方をしているなあと思いました。
失敗したことがないんでしょうか?
失敗に見えたことも誰か他の人のことだったのでしょうかね?
幼いときから大事に大事に育てられて、親の敷いたレールの上をつまずくこともなく歩んだ人が、一流大学を出て入社した会社で人生初めての失敗をし、立ち直れなくなって引きこもってしまったなんていうのはよくある話です。
「失敗がなければ成長もない」とはどこにもありふれて聞く言葉ですが、それは失敗してもやり直せることが前提にある社会での話でしょう。
今回率先して非難する方々には何か他に目論見があるのでしょうね。
その中に障がい者のいじめやホロコーストに関心のある人がどれだけいるでしょう?
非難をすれば自分に返ってくるのです。気を付けたいものです。
今日は早く帰って、開会式を妻と一緒にテレビで楽しみたいと思っています。