今週は「障がい者週間」ということもあり、「共生社会」あるいは「共に生きる」というスローガンに触れる機会が多かったですね。
我社のことも地元タウン誌の特集ページに取り上げていただきました。
編集者の方とお話していて気が付いたのですが、このスローガンにイメージされている障がい者とは、重度の身体障がい者又は知的障がい者のことなのですね。
重度の障がい者の場合、どんなことが不自由で、どんなサポートが必要なのか、特別な知識がない方でもある程度は想像できます。
つまり「分かりやすい」。
分かりやすいので支援の手が届きやすいという面があります。
しかし私たちB型事業所で普段接している方々は、一見どこにどんな障害をお持ちか分からないような軽度な方が多い。
つまり「分かりにくい」。
分かりにくいので、どんなことに不自由を感じ、どんなサポートが必要なのか「素人」では見当がつきにくく、誤った手を貸してしまうことも多い。
なので適切な支援が届きにくく、結果的に「生きづらさ」を抱えて苦しんでおられるのです。
内閣府や神奈川県、それに地元相模原市の特設ページなどを眺めても分かるように、「共に生きる」対象の障がい者に軽度な方やいわゆるグレーゾーンにいるような方は含まれていず、したがって「共に働く」という概念は「共に生きる」には含まれていないのだなということが感じられます。
人が生きていくうえで大事な「働く」ということが「生きる」ということから切り離されているように感じるのです。
なので働くことについて知りたければ特設ページではなく、厚生労働省関連のページに行くことになり、そしてなかなか改善されない縦割り行政によって関係機関をたらいまわされることになる。
その結果、自尊心を踏みにじられ政治不信、人間不信に陥ってしまう方が多いと聞きます。
「共に生きる」が空々しく、取り残されたような気持になるでしょうか。
「他人」と共に生きるには、許す心と、信じる心が必要です。
それはある時急に形成されるものではなく、育むものでしょう。
それと反対な思いや行いを繰り返し起こしては反省し、正す努力がなくて身に付くものではありません。
他人との関係のその多くは、働くことを通じて築かれていきます。
私たちは「働く」ことから多くのことを学び成長していきます。
その大切さを痛感するからこそ、重度の障がい者が声を上げ、重度であっても働くことができるツールなどが次々と開発され実用化されています。
障害を理由に働けない、働かないは通用しない時代が目の前に迫っていると感じますね。
でもそれはけして悪いことじゃないと思います。
「働いて生きる」という実にシンプルな価値観が私は好きですし、大切にしたいと思っています。
問題は、「働いて生きる」ことが簡単じゃないことです。
それどころか、働くことで命を削ってしまうという事態が後を絶ちません。
幸いテクノロジーが充足した先進国と呼ばれる国に生きる私たちは、過酷な環境での重労働で命を落とすことはほとんどありませんが、将来に希望を見いだせないで自ら命を絶ってしまう方は多い。
もう少し周囲が寛容であったなら救えたかもしれないと思われる事例が多いですね。
「自己責任」や「自業自得」という価値観がいまだ根強く社会に蔓延しています。
生きるというのはなんと面倒くさいことでしょう。
でもその面倒くさいことの先に少しでも希望を見出せたならがんばれますよね。
私たちのB型事業所は、生きづらさを覚える軽度な障がいを持つ方々のための働く場所です。
軽度であっても、今すぐに一般企業で働くのは困難なので、ここでその時が来るのを待つことにしたのです。
不寛容な社会への順応性を身に付けるのが先か、寛容な社会が現れるのが先か。
どちらもそう簡単ではなさそうです。
ここに集う一人一人が互いに寛容で、明るく楽しく、将来の希望を見い出せる場所でありたいと願っています。