このところ身の回りが賑やかです。
介護が必要になった地方で暮らす親の住居探しや、いい年をした弟の失職、上の娘の国際結婚?下の娘の高校受験だの。
私自身は特段変わりなく毎日やるべきことをやって暮らしているつもりですが、変化は外から勝手にやってきます。
前から予測していたことであっても、いざ直面すると慌ただしくなりますね。
やっぱり神様はまだまだ楽をさせてはくれないらしいなどと一人ゴチたりしますが、
老いた親の面倒を見たり、離れて暮らす思春期の娘の力になれたりするのはとても嬉しくもあります。
そうした中で気付いたのが、これまで周囲を振り回し変化をもたらしてきたのがこの私だったということです。
本人はやむにやまれず行動しているつもりなのですが、周りに与える影響を過小評価してしまう傾向があるので、周囲はたまったものじゃない。
だからやりたいことができるというのは、自分よりも周囲の力によることの方が大きいというのをあらためて知った気がします。
そうやって誰かのために何かをできる自分になること、人生の目標は案外そんなものでいいのかもしれないと思ったりもしました。
それからもう一つ、親の介護や子供の受験などを通して知ったのは選択肢の多さです。
世の中は実に金さえあれば受けられるというサービスが山ほどある。
もはやこの社会は平等でも何でもないですね。
「親ガチャ」などという言葉が子供たちの間で交わされるくらい、子供の未来も親の経済力次第というわけですか。
長らく私たち日本人はみんな同じと思ってきました。
みんな同じような価値観で同じような暮らしをしていると思ってきた。
それがもうとっくにそうじゃなくなっていたということを目の当たりにするようになってきましたね。
少数派の人たちの声が大きくなればなるほど、自分との違いに愕然とするばかりです。
でもこれまでだって、みんな同じと思えるようになるには人知れず排除されていった少数派の人たちがいたのです。
自分と違うものを警戒し、不利益になると判断したなら排除しようとするのが人間なのかもしれません。
でもそれを続ける限り争いはなくならないでしょうね。
皆同じが当たり前ではなくなった以上、違いに関心を持ち、面白がらないと。
こちらが違うと感じるのならあちらもそうだろうから、その違いを面白がってキャッチボールしてみることです。
そうすれば案外発見があるかもしれないし、意外なアイデアが生まれたりするかもしれない。
自分に足りないものを相手が埋めてくれ、相手に欠けているものを自分が補うことができると思ったら、争うよりも一緒にいることを選ばないだろうか。
自分自身が少数派だと気付いたのは、恥ずかしながら割と最近のことです。
娘の進路について相談を受けている中で、自分の経歴がほとんど役に立たないことが分かったのです。
自分のようなものに周囲がどれほど手を焼いてきたかを想像できるようになりました。
だから周囲には感謝するしかありませんね。
こんな私と一緒にいてくれてありがとう、と。
これからもみんなと違うことを考え出したら、遠慮なく知らせてほしい。
できるだけみんなの気持ちを考えるようにするから。
国際的な賞を受賞した学者と、皇室に生まれ一般人と結ばれた女性が、この国にはいられないと海外に暮らす選択をしたのは何を物語るでしょうか。
人材の流出、少子高齢化、ジェンダー、教育や介護の格差、インフラの老朽化、
もちろん経済も安全保障も、原発の扱いや憲法改正も、
この国には課題が山積みだ。
長いものに巻かれたいか、違いを超えて協力し合うか、
同じ失敗を繰り返すか、失敗を恐れず変化を求めるか、
臭いものには蓋をするのか、理想を追求するのか、
そんなことを選択する選挙になりそうですね。